密室の恋3 その2

 さあ、いよいよ本領発揮。
 第2回目の昼食会は和やかに始まった。
 今回は以前にもまして『質素』。
 別にけちってるわけじゃなくて、『料亭で出るようなものは避けてくれ』って言われるんだもの。リッチなおじさまたちには私の家庭料理崩れの方が新鮮なのだろう。つくづく、私はラッキーだ。

 前菜として自家製がんもどき、海老しんじょ白だし椀。こんにゃくのお刺身、冷製卵麺、メインはかつおのたたきとカレイの姿揚げ。そして先日の巻き寿司。

 ひと通り箸をつけた後、しんじょをとっておじいちゃんが私に聞く。

「こちらは何が入っているのですかな?」
「はい。芝海老とすくも海老、とびうおです」

 と、卵白に山芋を少しね。芝海老は江戸前ですよ。すっかり常連になってしまったデパ地下鮮魚コーナーおにいちゃんおすすめ。フードプロセッサーではなく、すり鉢で丹精込めてすりつぶしたおエビちゃん。ふふ、手間ひまかけてますわ。というより、ミッドタウンでゲットしたお気に入りのすり鉢をはやく試したかったわけだが。
 しかし。
 私はうっかりしていた。今の今まで気付かなかったなんて。
 
 えび〜?

 会長、小エビダメって言ってなかったっけ?

 やばい、思いっきり小エビじゃん!

 あわわわ……。

 正に、会長がそれを口に入れる瞬間だった。気付くの遅すぎだって。
 
 ぱくっ。

 私の正面で躊躇なく口に入れる。

 固唾をのんで見守る私。どきどき……。

 会長は無表情で飲み込んだ。まるで、私の言葉なんて耳に入ってなかったかのように。
 
 どうしよう。後で何か言われるかな。ことわりを入れておかなきゃ。

 しかし。伊勢海老がOKで小エビがNGとはこれいかに?

 お茶で流しこむ様子もない。よかったのかな?

 おじいちゃんは、気に入ってくれたみたいだ。リズムよく咀嚼して飲み込んだ。

「なるほど〜。弾力が違いますな。家庭でする場合ははんぺんを入れるんじゃなかったかな」

 それは手抜きでね。はんぺん入りはそれはそれで美味しいのだが。

「魚づくしとは結構ですな。頭がシャキーンとなる気がします」
「DHAでしたかな」

 副社長の言葉におじいちゃんはうんうんと頷いた。

「あれも眉唾物らしいという話も聞きますが、魚が体にいいというのは本当だ。不飽和脂肪酸ですな。いや、実は息子の嫁が孫の食事にうるさくてねえ。食育というのでしょうか」

 ちょっぴり表情が翳る。

「お孫さん、おいくつですかな」
「来年小学校に上がるのですよ。……どうしても幼稚舎に入れたいとはりきっているのです」

 そこで「はあ」と大きなため息。

「それはそれは。お受験でしたか」

 副社長が笑って和ませようとする。おじいちゃんは苦笑した。

「最初の子ですからなあ。熱の入れようがすごいのです。私につてはないのかと堂々と聞いてくるのですよ」
「そうですか」
「幼稚舎に受かってしまえば後はストレートで上までいけますからね。親の気持ちはよくわかるのですが」

 またまた深いため息。ぷっ。お受験か。大変ですね。そんなちっちゃいうちから。

「食事から何から徹底しておりますわ。うちに来ても遠慮なくいちゃもんつけますからね。こっちも気をつかいます。ところで」

 おじいちゃんは会長に顔を向けた。

「会長はアメリカの大学をご卒業されてましたな。失礼ですが、どちらで?」
「ハーバードです」
「ほう! 高校は」
「プレップスクールですよ。中学の途中から留学していました」
「ほぅ〜〜〜」

 感心して首を振ると箸を持つ手を休め、更に続けた。

「日本ではどちらに?」
「学習院です」
「へー。塾へは?」
「いえ。行ってません」

 会長、私の目にはいやそうな顔に見えるのだが。おじいちゃんの問いに淡々と答える。学部はとか取った資格はとか、えらく具体的な。会長の華々しい学歴に興味しんしんのご様子だ。

「なるほど、すばらしいですな! 是非うちの嫁に聞かせたい。アメリカかイギリスの大学でMBAを取らせたいなどと今から申しておるのですよ」

 会長ははじめてふっと笑みを浮かべた。もちろん、『嬉』の意味はなく。皮肉たっぷりに言葉を返す。

「MBAを持っているからといってどうってことないですよ。修士の資格を持つ人間が職を探してうろついてる時代ですからね。日本でしたら東大に入って官僚を目指すコースの方がよほど確実です」

 おじいちゃんは再度ふか〜いため息を漏らした。

「……ああ、夢がないですなあ。いや、孫はかわいいのですが嫁がねえ。そういえば、会長には弟さんがいらっしゃいましたな。失礼ですが、弟さんはどちらに?」

 一瞬、副社長の表情がこわばる。おそらく、高広くんの事情を知っているのだろう。ちらと会長を見る。会長は、表情を変えない。落ち着いて答えた。

「私より弟の方がよほど優秀ですよ。ずっとアメリカにいました。工学関係ですがね」
「ほう。どちらに」
「カリフォルニア工科大学と、日本の東工大にもいたことがあります。とにかく、研究畑の人間でして」
「それはまた大変そうだ」

 どういう意味で大変なのだろう。会長は小さく首を振った。

「いえいえ、決して処遇は低くないのですよ。早くからあれこれ、ネットサービスのプログラムなんかもやってましたね。もうじき実用化するあるシステムの開発に携わっていて、その報酬と年間フィーだけで私の年収を超えるんじゃないかな」

 するっと言い切った。
 おじ様2人感嘆の息。
 私も内心ため息。
 高広くんて、すごいのね。
 ……そうは見えんが。

「では、今はアメリカに?」

 おじいちゃんが聞くと、再び副社長の顔が曇る。禁句ですよ。と顔に書いてあるけれど口には出しづらいよね。

「……実は長いこと行方をくらませていましたが、つい先日、便りがきましてね」

 しかしそれを打ち消すかのごとく会長は実にあっさりと言ってのける。

「高広くんが! それは、よかったですなあ」

 副社長は声を上げた。
 私も思わず声を出しそうになる。
 
 高広くん、連絡してくれたんだ。
 よかったーー。 

 事情を知らない人にはこの高揚はわからないだろう。「ええ」と会長は頷く。

「何をやっているのか知りませんが、元気でいるようです」
「よかった、よかった。お父上もさぞお喜びになったでしょう」

 副社長は本当に嬉しそうに、にこにこ笑みをこぼして。おじいちゃんは、空気に合わせてただ頷いていた。

 別の意味でも、いい会食となった。相変わらず、取引関係の話は見えなかったけれども。
 そろそろお持ち帰り用の品を用意しようかなと思っていたところ、おじいちゃんが言った。

「あの、すみませんがこの巻物持って帰れますかな。私の秘書嬢にやりたいと思いまして」

 ちょっとばかし照れくさそうに。巻き寿司は最後のひとつ。皿に残して。

「かしこまりました。では、一折用意してまいります」

 私はにっこり微笑んだ。

 秘書嬢にお土産だって。かわいいところあるじゃん。

 おじいちゃんは更に、キュートな小声で付け加える。

「あと、松前漬け、あります?」
「はい。ございます。ご一緒にお包みしますので」
「ああ、嬉しい。実は、こちらで頂いた松前漬けがまた食べたくなって、そこの高島屋に注文したのですよ。女房に言っても作りはしないし、買ってきてもくれないので。息子が巣立ってから、すっかりしなくなってしまいました。2人分作るのは面倒だし買った方が美味しいと言うのです。お陰でキッチンは汚れませんがね」

 ハハハと笑う格好だけしてみせるおじいちゃんに、副社長はウンウンと頷きながら相槌を入れる。

「ああ、うちも似たようなものですなあ。息子が生まれて以来、ハンバーグやらカレーやらばかりになってしまって。たまに筑前煮や煮しめをリクエストするとしぶしぶ作ってはくれるんですが、どうも味付けが妙なんですわ」

 なるほど。
 料理拒否妻に、作るけど味付けが残念妻か。
 だから2人とも家庭料理をありがたがるのね。ふむふむ。

「お茶も、菓子もできれば全部いただいて帰りたいくらいで……」

 どっちにしても過剰評価だよね。こんなの、そこらの食堂でも出してるって。

「おそれいります」

 もったいないお言葉を背にキッチンに戻って包んでいると、小さくドアをノックする音がした。振り返ってみると、副社長が顔を覗かせた。

「市川さん、すまんが私にも貰えんかね。秘書さんに食べさせたいんだ」

 いつもの謙虚さがまして、すまなさそうに顔の前で左手を垂直に振る。

「は、はい」

 私は答えはしたものの、内心、驚いた。「じゃあ、すまんね」「いいえ」

 切り分けたものを更に半分に分けて折りに包んだ。
 気持ち、オサレに見えるよう、それらしく竹紐を結んで。

 2人はご機嫌で帰っていった。

 が、私はちょっと、ゆく先が気になる。


 横森さんに? 大丈夫かなあ……。
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密室の恋3 その3

「弟さん、みつかったんですね。おめでとうございます」

 二人きりに戻った部屋で、会食のデザートとは別に、大豆をミキサーでどろどろに砕いてグレープフルーツジュースで固めたものをさし出しながら、私は言った。さも、何も知らない風を装って。海老の件はひとまず置いておいて、だ。

「ああ。ありがとう」

 会長ははじめて、嬉しそうに微笑んだ。
 嬉しそうといっても、無論満面の笑みというわけじゃないが。
 でも私にはわかる。心の中の安堵が。空気がゆるい。
 
 私も嬉しい。心の中で雄叫びをあげる。

 頑張った甲斐があったドーー。

「家に連絡があったらしい。父が歓喜してね」

 会長はふっと笑って、そのおぼろ豆腐もどきを口に運ぶ。
 お上品に飲み込むとスプーンを置いて、息を吐く。

 ああ、よかったぁ〜。
 会長も、でしょ。
 たく、ポーカーフェイスなんだから。

「ところで、先ほどのエビだが」

 早い。もう切り替えかい。私はぎくぅと肩をすぼめた。

「あ、あの、すみません、うっかり、してて……」

 マジな顔。やっぱり、怒ってる?

「ふっ、伊勢海老を食べるのに何故小さなエビが食べられないのかと思っただろうな」
「い、いえ」

 ええ。思いましたよ。それで、うっかり出しちゃいましたとも。

「味などではなく、見た目がね、受け付けないんだよ」
「見た目?」

 会長は頷く。

「しかし、すりつぶしてあれば何の問題もないのだな。まあ、当たり前のことか。気にしないでくれ」
「はあ」

 出してもいいがすりつぶして原形をとどめるなってこと?
 エビの見た目ねえ。確かにいもむしっぽい気もするわな。
 デリケートですな。さすが、会長。
 
「それはさておき。いつだったかな、外食事業部の幹部と食事をしたんだが、来年売り出す予定の新商品の主力がね、エビなんだよ」
「はあ」
「それで、近々最初の商品開発会議があるらしいんだが、君、行ってみないか」
「へ?」

 てっきりお小言かと思っていたら全然違う話だった。
 私はぽかんと会長を見る。
 いたって冷静ないつもの様子。
 商品開発? 何故私が?

「次回から一般のモニターも参加するそうだ。主婦やOL、学生と既に募集をかけているらしい。キミも行ってみなさい」
「ええ。でも……」

 私なんぞが行ったところでただのミーハー……。どうしてエビからそういう発想になるのだろう。
 つか、今更エビ?

「あのう、仕事中に、ですか?」
「もちろんだ。あるいは、土日の場合は手当ても出す」

 何故エビ? エビバーガーとかいうのが昔はやったが。
 私ののりが悪いからか、会長は笑みだけ浮かべて、説明してくれた。

「国産のエビを売り出すための戦略だよ。国内のいくつかの養殖場の面倒をうちが見ることになった。まずは外食チェーンで様子を見て、徐々に加工や冷凍食品へおろしていく」

 ふうん。いつもながら多岐に渡って監視しなくちゃならないのね。大変だ。

「ネットでアンケートもとるそうだ。是非キミも参加してきてくれ」
「はい……」

 気乗りしない返事。あんまりこの部屋以外の仕事はしたくなかったりして。

「会場は都内だがね。今後は出張にも出てもらおうと思う」
「え? って、私がですか?」
「そう、キミにね」

 キッと、上司の顔に戻って会長は言った。

「……キミ、フライトの方はどうなっているんだ? 一向に東京から出た気配がないようだが」

 ぎくぎく。
 再び緊張が体を走る。
 フライトって。
 飛行機に乗れってことですよね?
 乗れないって。
 知らないところへ行って、また空港でよれよれになったらどうするの?

「いや、あのその」
「キミに地方での任務を与えて行って来てもらう。無論、仕事の範囲だ」

 ちょ、無理やり仕事作って出張行って来いって? むちゃくちゃだ〜。
 言ってることは無茶苦茶なのに、この刺すような視線。マジなのね。

「繰り返すようだが、慣れてもらわなくては話にならん。距離が段違いだからな。それに、勤務地によってはトランジットだってありうるんだ」
 
 トランジット〜? って乗り継ぎか。冗談じゃない。何時間もあんな所に押し込められて、また乗り換えて、それを繰り返すのか? 死にますよ。

「つまり、アメリカではなくなる可能性もあるんだ。キミも自覚してもらわなくては困るよ」

 ええーー。困るって、あんたが勝手に決めたんじゃないか。
 私も困る。

「精神科への通院と併用して治療しなさい。病院などいくらでもあるだろう」
「あ、あの、通院って、平日でも、ですか」

 何言ってるんだ、私。

「ああ。午前でも午後でも抜けて行ってきなさい。そのくらいの融通きかなくてどうする」

 きかなくてどうするって。
 なるべく部屋から出たくないのに〜。
 しかも精神科って。激しく抵抗があるのだが。

「で、でも」
「でも、ではないのだよ」
「え、はあ」
「日頃の熱心さをそちらにも向けてもらいたいものだ」
「え、ええ」

 もごもごしてると、更にきつめのお言葉が頭上から浴びせられる。
 次のお仕事に向かうため、会長は立ち上がったのだ。「どうしても改善されない場合は―――」

「麻酔を打って眠らせてでも連れて行くからな。心しておくように」

 がーん。
 そんな、珍獣を空輸するみたいに言わなくても。
 猫、悲しい……。
 


 こうして猫から珍獣へ降格を余儀なくされた私は、意気消沈してクリニックを探す。といっても会長がいない間にネットで検索するのだが。はたから見るといつもと変わらない。

 あーあ、高広くんの話で盛り上がると思いきや。
 なんてかわいくないんだ!
 会長、東京で仕事するわけにはいかないのかな。
 いつも大概ネットで済ませてるじゃん。
  
 頭では自分に都合のいいことばかり考えているわけで。
 検索結果がズラズラ出てきても目に入らない。
 習慣とはどうしようもないもので、画面はあっという間にいつものブログへと変わっていた。

『困ったよ〜。海外転勤しそうです! 実は私飛行機乗れないの』
『どうしよう。のだめの千秋みたいな催眠療法ってありですか?』
『皆さんは飛行機大丈夫なの?』

 あれこれ書いては消し、今日の会食の記事に付け加えた。
 ついでにツィッターもどきにも打ち込んでおく。
 夜までには何か返ってくるかな。

『いい病院教えてください。新宿方面』

 出るのはため息。
 会長、強引すぎませんか。

 内線が鳴った。

「今日のおこぼれまだですか?」

 と。秘書室より、催促の電話だ。

「はいはい。今行きます」

 もうすっかり当てにされちゃってる感がある。
 特に男二人。最近はリクエストなんかもされる。

『たまには和風スイーツにしてもらえません〜?』
『オレ、あんこは苦手なんで別物で♪』

 とか。
 男子スイーツ部かっつーの!
 会食のデザートで米粉の桑の実マフィン出すって言ったら、『おお、いいねえ。待ってまーす』だって。
 だが、これも私の仕事の一部だ。
 洒落っ気出して籠に入れてお持ちするとたいそう喜ばれた。
 部屋には男二人と室長と常務秘書の子が一人。
 本日は和風なので濃い目のほうじ茶と一緒に出して。
 まったりとした時がしばし流れる。

「う〜ん、いいねえ〜。こういうのも」

 春日という男性社員さんはお茶の匂いを一杯に吸い込んで気持ちよさそうに言った。

「ほうじ茶って番茶とどう違うんだっけ?」
「炒ってるかどうかの違いですよ」
「会長もこういうの飲むんだ」
「まあ、たまに」

 最近なんでも飲んでる気がするけども。

「へ〜。会長がねえ。これも入れ方とかあるの?」
「緑茶や紅茶ほどじゃないですよ」

 こんなの食後の口ゆすぎみたいなものだけどなあ、我が家では。
 熱湯で入れるので楽だよね。ミルクを入れて飲ませるカフェもある。

「オレが出したらやっぱペケなんだろうな、これも」
「そんなことないですよ」

 簡単なのにね。
 この人たちにしてみれば会長に飲み物を出す、という時点でピリピリものなのだろう。

「副社長絶賛のお茶もあるとか」
「えっ。あはは、ただの健康茶ですよ」

 何故それを。知らないうちに話が漏れているのかな。
 
「今度こっちに回してもらえませんか〜? 常務も健康診断の結果気にされてるの」

 常務秘書さんが言うと、笑いが上がった。

 このアットホームな雰囲気。私が来るまでぴりぴりしてたなんてうそみたいな話だ。

 とりあえず私は当初の任務は果たしたみたいだけど、この先は……。

 この人たちは知らないんだろうな。
 私が上で何言われているか。
 とても、言えない。

  

『連れて行くからな』

 って。


 ちょっと、嬉しい……。

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密室の恋3 その4

 例えばスポーツ選手なんかで飛行機恐怖症だったりすると商売(お金)にならないわけで、何が何でも克服しなくちゃいけない。きっと、中にはいると思うんだよね、そういう人。
 つまり、やろうと思えばできるはずなのだ。理論的には……。
 かつ、全世界的に上司の命令は『絶対』ときてる。

「ああ〜……」

 ちくしょう、上司め!

 私はとぼとぼと新宿の端くれを歩いていた。

「えーっと、ここか。第一産業ビル」

 見上げるビルはうちに負けず劣らずでっかい。
 時刻は8時半過ぎ。
 丁度いいかな。
 そう思って目的の場所にたどり着いた私だったが、見るなりぎょっとした。
 すごい、長蛇の列!
 何これ。まだ早朝なのに。
 サラリーマン風のおじさん、OL、お年寄り、お母さんに連れられた子供……。
 私はうんざりした。

『え? 病院? どうしたの、どこか具合でも悪いの?』

 とは室長の反応。通勤途中に病院へ寄ると連絡を入れたのだ。

『いや、特に平気なんですけど……地上では。その、ちょっと高度上げるとダメなんですよ』
『ええ? どういうこと』
『すみません、今から出ますので失礼します』

 意味不明な病状を伝えて切った。
 言えるわけねーや。飛行機恐怖症だなんて。みっともない上に私が転勤するなんてまだ秘密みたいだから。
 ああ、情けない。
 ネットで情報募ったところ、『ここいいよ』と教えてもらった診療所に来てみた。
 のはいいけれども。
 患者多すぎ!
 開院8時30分からなのに、既にずらーっと番号札持って待ってるなんてどういうことよ。
 世の中病んでる人が多いのかなあ。大丈夫か、ニッポン!
 ぼやぼやしてる間に何人か札を取っていく。
 仕方ない。
 私は札を取りベンチの端っこに座って問診票を書いていた。

 ブツブツブツ。

 妙な声がしたので無意識にそちらを向くと、すぐ目の前におじいさんが座っていた。
 何やら呟いている。視線はうつろで、私の耳には念仏のように聞こえる。
 このおじいさんも精神を病んでいるのだろうか。
 一人……じゃないよね。付き添いの人は?
 そっと見回すが、それらしい人はいない。

「うおら、ばーたれがぁー」

 突然、おじいさんは声を上げた。
 私は弾みで席を立ってしまった。
 おじいさんの手がぶるぶる震え始めた。

「あらまあ、道方さん……」

 看護士さんがやってきて、おじいさんの顔を覗き込む。
 おじいさんはずっと、何かを呟いている。うらめしそうに。
 看護士さんに背中をなでられても。
 その光景だけでも異常なのに、更に尋常でないのがみんなの視線だ。しらっとも冷たいとも微妙に違う覇気のない眼の色。
 ひぃぃ。
 何だか、座るに座れない、チキンな私。
 こそこそ受付に行って待ち時間を聞いてみる。

「2時間くらいでしょうか」

 実にあっさりと言われ、がっくり肩を落とした。

 ちょ、2時間もこんなとこにいるの〜?

 病院なんてめったに来ない私には刺激が強すぎる。私は保険証を返してもらい、そこを出た。
 
 すごすごと引き返していつものルートへ。
 
 ロッカーから会長室へ上がる途中に室長が駆け寄ってきた。

「市川さん、具合悪いの?」

 挨拶もしないうちに。本気で心配してくれてるみたいだ。小さな声で「おはようございます」と言いながら私は首を横に振った。

「大したことじゃないんですけど。治すよう言われたのでぼちぼち通ってみようかなと思いまして」
「言われたって、会長に?」
「はい。あ、そんな大げさなものじゃないですよ。あはは、高所恐怖症の一種みたいです」

 バカみたいな言い訳だ。だが私の頭じゃこれくらいしか思いつかない。

「えっ、高所恐怖症だったの!?」

 室長は大げさに手を動かした。いや、違うんだけど。高所恐怖症でもないのに何故飛行機はダメなのだろう。ふと私は思った。

「わかんないです。そうかもしれないって」
「大丈夫? 高い所が苦手、なんて。ブラインドをつけるとかじゃダメなのかしら」

 つくづくこの人はいい人だ。などと、じーんとしつつも、ちくちく良心が痛む。お気持ちは嬉しいけれども、ブラインドなんかしたら絶景が見れなくなっちゃうわ。

「その、何ていうか、静止してる景色は平気みたいです。ただ、動いてるのがちょっと」
「まあ、揺れるの?」

 いや、揺れないけど。こんな金がかかってそうなビル、耐震強度も抜群なんだろうし。まあ、地震の際は上の階ほど揺れるという話だが。
 本当は閉所恐怖症の方だろうな。どっちかと言うと。

「会長はご存知なのね」
「はあ」
「あまり無理をしないでね。気分が悪くなったらいつでも休憩していいのよ」

 休憩し放題なのだが。
 もうこれ以上嘘を広げるわけには行かない。
 私はへらへら薄ら笑いを浮かべて、ゆっくり、その場を離れた。


 とりあえず、クリニックに行きはしたのだから一歩前進だ。と自分に言い聞かせて上に上がると、荷物が届いていた。
 「開けてみなさい」と言われて、そのクール便のシールが貼られたダンボールを開封する。
 スッキーニ、トマト、オイルサーディン、アンチョビーの瓶詰め。
 何このイタリア尽くし。どっさり、太陽の恵み。

「知り合いが送ってきたんだ。好きに使ってくれ」

 と、会長は言った。

「房総の海沿いに住んでいるんだ。アメリカにいた頃の同期なんだが。畑や釣りが趣味になってしまったようだな。そんな人間じゃなかったんだがね」

 フフと微笑む。

「えーと、このアンチョビーは」

 私は瓶を手に取った。クール便なのでひんやりしている。結構大き目のガラス瓶にアンチョビーがぎっしり。市販のアンチョビーといえば大抵小さな瓶詰め入りだ。このサイズは珍しい。

「自家製だよ。ご自慢の品だそうだ。是非、料理に使ってくれと言われた」

 へえ〜、自家製? すごいなあ。サーディンの方は、何となく作れそうな気がするけれど。いかにも美味しそうな肉の色。
 ちらっと箱を見ると、送り主は『亜蘭』。何じゃ、こりゃ。
 あて先をこのビル名にして、会長の名前を書いておけば、まず間違いなく届くところがすごい。さすが、自社ビル……。
 奥に引っ込んで、早速献立作りに取り掛かる。
 千葉の田舎住まいのアランさん特製アンチョビー&オイルサーディンに山ほどのズッキーニ、トマト。トマトは大小様々なサイズ、形があり、色々使えそうだ。モリモリとハート型に熟したでっかいのもある。
 考えた結果、ズッキーニのファルシ、トマトの冷製パスタ、夏野菜のキッシュをお昼に、デザートはズッキーニとライムのケーキ、とした。

「これは美味しい!」

 しょっぱな、付き出し代わりにちょっと焦げ目をつけたオイルサーディンを口にした途端、唸ってしまったのは私だ。やられたぁ〜。レモンと玉ねぎと一緒に口の中に広がるこのエキス。絶妙な塩加減。ああ〜、一杯やりたくなる〜。

「ワインが進みそうなのにな。残念」

 手でグラスを傾ける振りをすると会長はふっと笑った。

「旨いね」

 会長、機嫌よさそう。
 きっと、クリニックに行ってきたのだと思われてるのだろう(確かに行ったことは行った)。
 そのせいかどうか知らないが、今日は久しぶりに同じテーブルで食べるよう言われた。
 並べてるだけで幸せな気分になる。イタ飯ってそういう良さがある。見た目おしゃれなのに気取りがない。案外重くないし。

「オリーブオイルにも挑戦すると言っていたよ。すっかり、人が変わってしまったようだ」

 ふうん。仕事人間だったのかなあ。アランさんとやら。

「イタリアの方なんですか?」
「いや。アメリカ人」

 会長って、友達いなさそうで、そうでもないよな。
 アメリカにいた頃はもっと普通だったのだろうか。
 あの緑川さんにしろ、会社に届け物をするほどの間柄だ。

『アメリカにいらした頃のお知り合いが官庁にもいらっしゃって……』

 いつだか、吉永さんも言ってたな。

「日本に来て、日本人と結婚して、いずれは帰国することになるのだろうが、田舎の生活を満喫しているよ。釣りやサーフィンや、会えばその話ばかりだ。よほど、気に入ってるんだな」
「へえ。イワシなんて釣り放題ですね」
「そう。私に、仕込みを手伝えと言ってくる」

 会長に?
 まあエビや大物がさばけるのだからイワシなんてちょろいわな。
 手開きでちょちょいのちょいですわ。

 会長は極細のカッペリーニをフォークに巻きつける。
 ふわんと伸びた前髪が額にかぶさる。
 きれいな目にかかりそうな、珈琲色の髪が、とてもいい感じ。
 この人の地色なのか、本当に、珈琲の香りがしてきそうなほど、いい色合いなの。
 こんなにかっこいいのに、左手の薬指に何もしてないのって、つくづく信じられない。
 御年34歳。

「お互い日本にいるうちに、一度行ってみようとは思ってるんだが、中々機会がない」
「そうですか」

 日本にいるうちに、なんておっしゃらずに。

 ずっと……いようよ?
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