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密室の恋2 6.isn't she lovely

いよいよ桜の蕾がほころびはじめた3月最終週。
新宿界隈の花の状況がこの高い階からも確認できる。
今日は例のプレゼンテーションの日だ。
同じフロアにあるご立派な重役専用ミーティングルームには社長、副社長、専務、社長の精鋭チームとやらの社員さん数名、系列のT不動産社長、副社長、社員さん2人が次々入室する。
こういう場面に居合わせると、やっぱり会長は一番偉いのねと改めて思う。
いつもの重役連中はそうでもないが、T不動産ご一行様は真っ先に会長に頭を下げる。握手し一言二言交わして。
ひときわ丁寧な若手社員さん。もう1人は女性だ。CLASSYやBAILAのモデルさんか? と思うほど完璧コーディネートのパンツスタイルに身を包んだ美女。
その彼女、会長と目が合うや否や、

「九条会長、ご無沙汰いたしております」

それまでの人たちにない大きな声とともに60度近い敬礼をして挨拶をしたものだから私はぎょっとした。

『武道系!?』

そんな感じのまさしく『敬礼』。今時こんなお辞儀する人がいるんだ。
とまあびっくりしたのは私だけで、誰が目を向けるでもなく、席についていく。会長もいつもの無表情。その美女も着席した。
重役ずらずら並ぶ前でプレゼンテーションを行うのはあの水城さんと、T不動産の男性社員さんだ。

『プレゼンもやってもらえるの〜? ありがとう、市川さん。あー嬉しい』

なんてありがたがられちゃったけど、永遠に代わって差し上げますよ。
こんなドラマみたいなシーンそうそう見れるもんじゃない。
重役会議と同じく水と資料並べて突っ立ってるだけだもの。楽〜。
私、ミーハーなのかな。
おじさんたちの上座でじっと見守る会長。いくら創業者の家系とはいえ気を遣うだろうな。でもいらっしゃると場が締まるわ。そんな気がする。絵的にもね。クク。あんな美女に目もくれないなんて。緑川さんの言ってたことは本当なのかな。会長の過去って一体……。あの美女とはどんなつながりで?
そんなこんなを妄想しながら過ごす約2時間(この時間突っ立ってるのが吉永さん達には苦痛なのだそう)。
特に突っ込まれることなく、会は無事終了した。最後は誰からともなく拍手で締めくくられた。社長の満足そうな笑み。私は知っている。先週1回、今週(昨日だが)1回会長の『お直し』が入ったのだ、反対意見なんて出るわけない。
例の美女は傍聴者として参加したデザイナーさんだそうで。帰りも深々と会長に頭を下げたのが印象的だった。

「あの女性の方って会長の後輩さんですか? 丁寧でしたね」

皆が出て行った後飲み残しのペットボトルの水をどぼどぼ流しに流しながら隣の室長に尋ねた。

「御堂さんね。ふふ、会長に鍛えてもらったのよ。久しぶりに見たけどあの人、以前とはまるで別人ね」
「えっ、そうなんですか」

別人? あんな美女にもビフォーアフターがあるのかな。

「ちらほらいるのよ、そういう人。これからは水城さんがそうなるのかしら」
「へえ」

じゃあお気に入りなのかな。そうは見えなかったが。

「市川さん、もういいわよ。あなたも準備があるでしょう」

もっと聞こうとした私の作業の手を止めるべく、室長は言った。

「いつもごめんなさいね。頑張ってね」
「はあ」



会長室のテーブルに季節の品が並ぶ。
お客様は先ほどの水城さんとT不動産の男性社員さん、各々の社長副社長だ。
今晩は満月だそうで、月をイメージしたウニのスフレ。それを絡めていただく枝豆を練りこんだスティックパイ、パステルカラーのボンボン状チーズケーキ、3種類のベリーを浮かべた水玉模様のジュレなど。オヤジにはチーズ系が好評なので通常ショコラにするところそれにしてみた。足つきのガラスの大きな器にミモザとユーカリの花つきの小枝とクリスタルを垂らして若干豪華めにコーディネート。……コンランのスタイリストさんの受け売りだったりして。

「じゃ、中野くん」
「はい」

挨拶の後促されて起立し自己紹介をして名刺を交換する。
要は茶会兼名刺交換会ですね。中野氏はT不動産社長のお気に入りってとこか。お気に入り同士の顔合わせ。
今後はこの水城中野コンビが中心となって計画が進んでいくのだろう。
社長はニコニコ嬉しそう。
どことなく貴族チックなテーブルのせいか会長は何だかロシアの皇帝みたい。ぷっ。
社長と副社長にはさまれ若干緊張気味なお気に入りくんたち。中野氏の席にさっきの美女が座っていたらまるで見合いだ。
この人たちが将来の幹部候補筆頭か。こういうシーンも中々見れるもんじゃないよね。
殆ど社長副社長の雑談だった気もするが短い宴は終了した。

「九条会長、本日はどうもありがとうございました」

2人揃って深々と頭を下げる。
会長はノーリアクション。いつものことだ。

「ご馳走になりました。会長専属のパティシエールにおもてなしいただき大変光栄です。社内で見かけることがありましたらどうぞお声をかけてください」

いきなり振られてまたまたぎょっとした。同じくらい丁寧な礼をされて。この私に。
せ、せんぞく……何ですって??

「あ、ありがとうございます」

慌てて礼をして、バタンとドアは閉まる。

ドキドキして振り返ると会長は平然と腰掛けたまま。一瞬目が合って、

「この部屋に来て君の手料理を食べると何やら縁起が良い……とごく一部で囁かれているそうだが。フ、別にそれにあやかるわけじゃないがね。手間を取らせたね」

何だって?
余計ドキドキすることを。
ごく一部って、社長と副社長しかいないじゃないかー!

「そ、そんな」

そんなつもりで作ってねーし!
変な噂流すなー。

「……失敗は許されないわけだが。ま、何とかなるだろう」

あの嬉しそうな社長の顔からは失敗なんて想像できないけど。自分のお気に入りが認められてさぞかしいい気分だろう。

「社長、喜んでらっしゃいましたね。意外と……控え目なのかな」
「私に遠慮してるんだよ」
「え?」
「口うるさい監査人が全権を握ってるようなものだからな。だがね、政策と同じで締めてばかりでは覇気がなくなる。自然と士気も下がる。やはり何らかの景気づけは必要だ。社長がやる気になっているのなら尚更都合がよい。多少の誤差は他で調整つければいいことだ」

会長……。気を回してるんだね。会社の帳簿は締めてるんだ。自分の財布はザルなのに。

「さ、もうひと仕事するか」

さっと立ち上がった。

「君、夜は空けておきなさい。食事に行こう」

ぽんと肩を叩かれる。

よっしゃー。そうくると思って実はあらかじめ練っていたのだ。
秘密のプラン……。

「先に出て買い物でもしていなさい。今日は君の好きな店に行こう。7時には行けるだろうから待ち合わせ場所はPCにメールしてくれ。出先で見る」
「はい」

ラジャー。思惑通り。しめしめ……。

会長は何たらシンポジウムに出席するため会社を出られた。
今日は調子良いみたいで。良かった。



片付けの後、スフレを持って秘書室に降りる。
あまり甘くないスイーツだが、夕方近くで空腹気味の皆さんには関係ないみたいだ。
威勢よく平らげていただいた。

「オレはじめて食べましたよ。おいしいっすね」
「私食べたことあるわ。名古屋のフランス料理の店だったかな。これだけを食べれるなんて得した気分ね。しかもオフィスで」
「名古屋ですか。もしかして地元が?」
「そうそう」

話も盛り上がる。
盛り上がりついでに、男の社員さんが話を振った。「そういえば御堂さんが来てたんでしたっけ」
さっきの女の人だ。室長が頷いた。「ええ」

「見たかったな。でもオレはとても立ってられないなあ。どうしても昔の御堂さん思い浮かべちゃって」

ぷっと大きく吹いた。

「オレもだ。皆そうだよ。室長位だって、凛としてられるの」
「御堂さんて……そんなに違うんですか?」

私だけ空気の違う流れだ。

「そうだよ。こうだくみより化粧濃かったんだぜ〜。アゲ嬢以上やまんば一歩手前。あ、やまんばってわかる?」

ええ? 耳を疑った。

「春日くん、やめなさい」
「事実ですよー? 社内の名物だし。皆知ってる有名人」
「へえ」
「あの人さ、設計デザイン部で一番実力あるからさ。課長部長が注意はするんだけど、聞かなくて、ついつい見逃されてたの。表舞台には出なかったからな。遂に社長直々に勧告下ったんだけどそれでもやめなくてね。何だかさ、聞く所によると株主の娘らしいんだわさ」

株主ー? やまんばって。

「社長が会長に言ったかなんかで、呼び出し食らったの。そん時オレが部屋に通したんだけどさ、今でも覚えてるよ。スゲー度胸だぜ。いや、どっちも。


『安生社長が何度注意しても聞かないそうだが、君はその風貌でプレゼンの場に出るつもりでいるのか?』
『出る気はありません。裏方で結構です〜』
『それでは困るんだが』
『会社を辞める気もコレやめる気もないです〜』
『……そうか。ところで金沢のSB港湾開発事業は知っているな?』
『はい』
『現状では地元C社でほぼ決定していて取れる見込みはない。だが可能性がないわけではない。最後の選考は市民投票で決まる。もし取れれば特例として認めよう。落ちれば……或いは面倒だと思うなら、今すぐ辞めてもらって結構だ』


ずばっとさ。聞いてて恐かった〜。御堂さんむっとして帰って行ったよ。それから仕事頑張ったらしいぜ。で、コンペに出展して」
「どうなったんですか」
「……見事落選。実はさ、上層部には既に伝わってたみたいなんだけど、やっぱりC社で決定だったんだと。市民投票なんて関係なく。それ知ってて会長はやらせたんだよ。御堂さんさすがにがっくりきてたって。すぐに退職願提出して、受け取った課長が社長に持って行って、社長が御堂さんを呼んだんだ。

『明日にでもそのメイクと服装を改めるのならこれは見なかったことにしてもいい』

と。職場の連中は9割方来ないだろうと思ってたらしい。ところが。ご覧の通りの変貌振り。当日のことは今でも伝説さ。こうだくみが沢尻エリカに変身したーって、ちょっとした祭り状態だったんだって。上司と一緒に社長に挨拶しに行ってさ、あそこの社長も人情派だからバラしちゃったんだよ、全部会長の指示だって。その足でここへ来て、俺ら誰もわかんなかったよ、マジで! 名前言われても、どちらのミドウさんですか? だったもんなあ」
「だったなあ」
「会長の前で、御堂さん、深々と頭下げて、

『この度は申し訳ありませんでした。九条会長のご配慮感謝いたします。今後もご指導のほどよろしくお願いします』

でっかい声ではきはき、全く別人だよ。俺口あんぐり。会長、顔色ひとつ変えずに俺に目配せして、びびった〜〜。え、俺!? 連れて行けってか? でもさ、彼女それ以来変わったよ〜。何より例のコンペ、市民投票でダントツ一位だったんだと。でさ、それがオーストラリアのどっかの自治体の関係者の目に留まって、ブリスベンだかメルボルンだかそっちで今建設中だよ」
「ゴールドコーストよ」
「あ、そうそう」
「すごいですね」
「うん。今のが無事進めば20代にして主席デザイナーさ。やっぱ会長って指導者タイプだわ。恐いけどそれ乗り越えた人間は出世コースまっしぐら。会長に敬礼する若手社員はうちの生え抜きだよ。特別枠っていうか。注意して見てみなよ。殆どの社員が会長のこと知らんから通り過ぎるけど中には御堂さんみたいなのがいるからさ。高島屋敬礼してるヤツ!」

あははははと笑い声が響く。
知らないから……。あの人が代表取締役だなんて私も知らなかった。
会長こそ表舞台に出ない。重役専用フロアにいて専用エレベーターで出入りして、殆どの社員はあの人のこと知らないの。あんなに働き尽くめなのに。

「市川さんもそうだよね〜。今日も美味しかったよ。またよろしくおねがいしまっす」
「あはははは。ど、どうも、光栄です……」

私なんて大したこと何もできないけど。
ほんのちょっとでもお役に立てれば……って思うよね。

だけど。

専属パティシエールはちょっと。

やめて……。



またまた面白い話聞いちゃった。
裏オキニか。もっと可愛がってやれよ、社長みたいに。
よその社長から喝入れ頼まれるなんて、ご意見番か!
無条件に偉そうな人って必要なのかもね。会社って組織には。
本人はやりにくいかもだけど……。

私は密かに企てていた。
串かつデート。店は押さえた。場所は新宿東口界隈。会長と待ち合わせして、店に向かうその足で誘導しちゃうのだ、例のクラブに。
『弟さんらしい人がいるんですけど、一緒に行って確かめてください』
強引に店まで行っちゃえば何とかなるよね?
そしてもうひとつ。籠バッグの中には細長いパッケージが。1週間遅いけどささやかなプレゼント。週末に買って、この日のためにとロッカーに入れておいた。渡せるといいんだけど。

待ち合わせ場所に歌舞伎町手前のマツキヨを指定して時を待つ。
ドキドキする。
もし高広くんだったら最高のプレゼントになるだろう。
違っていたら……。笑ってごまかせばいいや。私もすっきりする。
どうしても頭からあの人が離れない。気になって仕方ない。
弟さんの人となりを聞けば聞くほどタイプが違うんだけど、寝て起きるとやっぱり……って元に戻っちゃう。まるで何かにせかされるように。イメージが重なる。

会長、タクシーで来るのかな。
時間通りに現れるわけなくて、今どこにいるのかもわからない。
私は他の客と同様に店先で商品を手に取ったりして時間をつぶしていた。
その時だ。

「やあ、仕事帰り?」

ぽんと肩を叩かれた。
ドキーンと胸が鳴った。声だけで。

「こ、こんばんは」

にこっとさわやかスマイル。相変わらずなホストスタイル。
こんな所で遭遇するとは。

「今からお仕事ですか?」
「そう」
「こんな所で会うなんて、びっくりしました〜」
「ここ、通り道だからさ」

チャーーンス! 店に行く手間省ける。
とっさにそう思った私は彼を引きとめようとちょっとした小芝居を打った。

「私……気分悪くて」
「早退したの?」
「はあ、まあ。あのーちょっと見てもらえませんか? 薬たくさんあって、よくわからなくて」
「え? ちょっとだけなら」

ああ、早く会長来ないかなーー。ナイスタイミングなのに。
気は焦る。
ここ来て10分は経っただろうか。

「えーと、何だったけな、薬の名前、忘れちゃった。久しぶりに買うから……」

店内の痛み止めの棚の前で悩んでいる振りをする。
隣の彼はシャツの上にコートのような長いシャツのような上着を羽織っていて、それのポケットに手を突っ込んだまま、ずらっと並ぶ薬の列をじーーっと見ていた。
ふと独り言のように呟いた。

「頭痛かな。あんまり薬に頼らない方がいいよ」

……ドラッグストアにいてその台詞はないっしょ。
私は振り向いた。意外な顔してたかもしれない。

「神経抑えてるに過ぎないからさ。水飲んで1日寝てりゃ大抵は治るよ。OLさんて休めないのかな」
「い、いやそういうわけじゃ。食あたりかも」
「あー、そっちか。女の子って色んなもん食うからなー。そりゃバランス崩れるって。日本人なら梅と昆布だぜ」

はあ?
あまりにも外見とかけはなれた台詞に私は口をぽかんと開けた。
ちょ、この人貧乏出身?
とても金持ちの息子の言葉とは思えない。
やはり違うのかーー?
まるでうちのおばあちゃんが言いそうな台詞だ。
ちびまるこのばあちゃんちっくな。

「あ、あとみかんの缶詰なんかもいいな。ジュースごと食べると回復早いよ」
「あ、はは。面白いですね、それ。おばあちゃんが昔言ってたような。よくご存知で」

返す言葉も思いつかないっつーの!

「そりゃ、こういう仕事してたらさ。一番気を遣うもんな」
「はあ」

不思議な空気が流れるその時だ。
それを払拭するきんきん声が突如耳に突き刺さった。

「りょおったらこんな所にいたっ! 探してたんだからーー」

あ。
お店で睨まれた子だ。
キャバ嬢系って似てるけど、きっと同じ人。また睨まれたから……。
キッって。

あれよあれよという間に彼の腕を掴み、ぐんぐん引っ張っていく。
私は焦った。キョロキョロ見回す。
会長、まだー?

「りょう〜〜。今日はよそ行かないでよ。いっぱいオーダーするからぁ、そばにいて」
「はいはい」

彼は律儀に「じゃあね」と振り返って、遠ざかっていく。
ちょっと、会長〜〜。
いらいらして携帯出して、ボタン押したその時着信が。
慌てて開くと会長だった。
早く来てよ! 今なら間に合う。
しかし文面見て目が点になった。

『マツキヨとは何だ?』

えーー?
冗談だろ!?
あんたこの前マツキヨの話してたじゃん。なのに知らないの?
つーか、目の前の携帯で検索すれば一発だろーが!
検索せんのか。
怒りすらこみ上げる。
が、とてもそんなこと言えないよね。
彼はとっくに見えなくなっていた。
あーあ、がっくり。
一気に力が抜けた。

あの人……違うのかなあ。
お金持ちのお坊ちゃんがあんな貧乏くさいこと言わないよね。
おばあちゃんだってめったに言わないようなことを。
高広くんじゃないか。違う?
何度目だよ、疲れる。
あの人たち、ホストとキャバ嬢だよね。どう見ても……。

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密室の恋2 7.新宿夜桜blue moon

何だよ、この人出。やっぱ東京ってすごい。
もう何度目かな、東京で花見のシーズンを迎えるの。
来年私は日本にいるのだろうか、それとも……。
なんて思いながらもう1人の自分は品定め中。
カウンター後ろの棚にずらっと並ぶ日本各地の焼酎のボトル。
濃いウッドと黒い石造りの調和するモダンな店内。花見の人出か満席だ。
奇跡的にカウンターの一番よい席が取れたの。私にしては上出来だ。
広い広い黒い御影石でできたと思わせる天板の向こうでシェフが調理してる。

「いつも思うが君は酒に強いね」

隣の人に言われ、「あはは、そうですか?」と毎度同じ返事をしてみる。
相変わらずキメキメ。今日はダーク&ダーク&ダーク。
スーツシャツネクタイとどれも濃い色で揃えて。
しかし色味は微妙に異なる。さすが! マジで誰かいるんじゃないの?
そのダークグレーのスーツの袖から覗く本日の時計はオーソドックスなオールドランゲ?
いちいちチェックするな? こんな近距離に座ってるんだもの、つい目に入るというもの。
あんまり見つめていちゃドキドキするからあちこち視線を飛ばして紛らして。
会社の近くのお店で、しかもカウンター席でお食事してるなんて誰かに見られたら……。
なんてつい思っちゃう。
ええ、ここは会社近くの穴場的新店。
そうです、私が来させて頂きましたとも! 新宿駅を通り抜けて。
うろうろしてる間に気付いたの、あのビルが目に入って。
S物産のでかい社屋。
会長が来るわけないじゃん!
秘書室の皆から諸悪の根源的言い方をされていたあの会社がある新宿反対側に。
って。はよ気づけよ、自分!
歌舞伎町近くのお店はキャンセルし、リストに入れてたお店で真っ先に電話して席取れたここに直行したのだ。
待ち合わせて来てみるとことの他いい感じ。何だか会長の雰囲気に合ってるわ。ほっと胸をなでおろした。

「いい飲みっぷりだ」

既に3杯目。うち1杯はロック。公認されてるとはいえそろそろ控えとかないとね。と、また棚の陳列を眺める。ああ〜宝の山だ。見てるだけで幸せになる〜。この店また来ようっと。
串かつ、会長流に言うと串揚げか。関西のお店の支店だそうで。
その昔友達とバスで初めて大阪に行ったとき、ミナミのお店で串揚げに感動したものだ。懐石料理に出てきそうな、そのまま食べてもよさそうな一品をネタとして揚げるんだもの。凝ってるよね。
会長はさすが、それを串から外してお食べになる。
串かつの串を外して食べる男の人初めて見た。女の子は3人に1人くらいいるけど。
やっぱお坊ちゃん育ちって違うんだなあ。しみじみとまた観察してしまう。

「人多いですね、花見客ですね」

御苑帰りかな。東京には名所が一杯あるよね。もちろん夜桜も。もう少しすればあちこちで一気に花開く。

「どうかな。食後に花見をするのかな?」

かなって。興味なさそう。
ああ、そうそう。もうひとつのメイン、プレゼントを渡さなくちゃ。
バッグから包みを取り出した。

「会長、遅くなりましたけどお誕生日プレゼントです」

ちょっと驚いた顔をされて、「ありがとう」

ドキドキした。男の人に物渡すの久しぶりだ。
引越しする時、例の隣人に助けてもらったお礼もこめてしょぼい自作クッキー渡して以来?
PRADAのネクタイ。いつもエルメスやグッチっぽいのしてるけど、それとはちょっと系統の違う、控え目ながら前衛的というかその柄が売り場に行くなり目に入って。
これ会長に似合う! と。
包装を解いて、ネクタイをあてがう真似して。やっぱピッタリ。
堂々と人前でこんなことして。はたから見るとどんな風に映るのかな。
おじさんと言っても男盛りの妙齢だし。クク……。

「今日もハイアットにお泊りですか?」
「ん? ああ」
「……普段はどちらに住まれてるんですか? マンションとか?」
「ハ、しがない社宅暮らしだ」
「どこの?」
「赤坂だ。役員専用だが」

え〜。近いじゃん。どうしてまたいちいちホテル暮らししてるの? 仕事人間だから? 私なんか赤坂に住んだ日にはあちこち歩きまくるけどな〜。

「御所の桜見えたりするんですか?」
「最近帰ってないからわからん。家から見えるのは議事堂だがね」

えー。これだよ。めげずに話題を続ける私。

「その昔友達と新宿御苑にお花見に行って、5時前に閉園っての知らなくて殆ど見れなかったことありますよ! あれは頭にきた。早すぎませんか?」
「ああ、なるほど。そういえばそうだったな」
「ま、他にも一杯あるからいいけど。その日は千鳥ヶ淵まで歩きましたよ。あそこ素敵ですよね〜」

ホント素敵。大好きだ。松江城の拡大版……。ちょっと違うけど。

「そうだね。新宿御苑か。入れないかな? 今日は月も綺麗だ」
「え?」
「行ってみるかい?」

すっと立ち上がる。食事は済んでいたけど焦る。「あ、会計。今日は私が……」と慌てて財布を出すも、さらっと片手で制されて。「私に恥をかかせないでくれ」って。
こんな風に言われてうまく返すことのできない小娘な私。結局いつもと同じパターンか。

「もう十分して貰ったよ。ひとまず預かっててくれ」

と私の籠バッグにネクタイを入れて。そこから先は思わぬ展開だ。



タクシーでどこに連れて行かれるのかと思えば。
代々木方面からぐるっと回って新宿側とは反対の入り口辺りで降り、雑木林と民家の隙間というか何だかよくわからない道をずんずん進んで。「ここかな」汚い塀のようにしか見えないそこをどうやったのか知らないが動きそうにないその塀が魔法のようにずずっと開いた。

「ええーー?」

思わず声出るって。驚いた。
ドキドキ胸が鳴り始める。これって不法侵入?……そのドキドキか。
今晩は満月。月の明かりを頼りに。
桜の木でも何でもない木立を抜けるとそこは雪国……ではなくおとぎの国だった。

「わあ」

別世界だ。広い新宿御苑の池に月が映ってる。

「すごい、すごい」

無意識に駆け出していた。それこそハイジのように。
素敵……。
その昔来た夕方の景色とは全然違う。
ライトアップされた他の名所のそれとも。
月に照らされた芝生とうっすら白い桜と、その周りを囲むビルの灯り。

「綺麗……。会長、よくご存知ですね」

いや、不法侵入では? それはまあおいといて。

「毎年10月。ここで能の舞台があるんだが知ってるかい?」
「いいえ。能……ですか」

恥ずかしながら縁がない。そういえば近くに国立能楽堂があったな。その程度のレベルだ。

「新宿の企業が協賛している。スポンサーというヤツだ。そこで会った警備員が教えてくれたのさ。以前うちの会社にいた。私の顔を覚えていたらしい」
「え〜。ガードマンさんが?」

会長……。意外な人と話したりするから。
秘書室の人にはつっけんどんなのに。

「ふ、うまい具合に満月だ。今日が満月だということは今月2度目かな? 縁起がいいね」
「はあ」
「ブルームーンとも言うな。本来青く見える月のことだがね。滅多にないから転じたのだろうな」
「そうなんですか」
「それを見ると幸せになれると」

視線が合わさる。
胸がとくとく鳴る。
会長の顔が月光に照らされてこれまでになく麗しい。
この高貴なオーラ。ちょっとない。皇帝というより帝だ。

「昔ここに忍び込んだことがあった。弟がどうしても月が見たいといって聞かなくて、何かの帰り、偶然見つけた穴から入った。その晩も満月だった。弟はその頃天体に夢中で、陰暦で暮らしていたんだよ」
「えっ」

意味がわかんね。いきなり弟の話になって、またもやあの人を思い浮かべる。もうだからいい加減にしろって。

「とにかくやんちゃで知識欲が半端じゃなく旺盛だった。私が弟に鍛えられたようなものだ」

えーー。すごいな。天文オタだったの? 緑川さんも『変わってる』って言ってた……。

「結局ひと晩明かした。芝生に寝転がって寝てしまったんだ。父に大目玉食らったよ。『お前がついていて何をしていたんだ。捜索願を出す所だったぞ』とね」

下に弟や妹がいる子からよく聞くが上の兄弟ってその辺損だよね。うちにも兄がいるが。滅多に思い出さないもっさい兄。あいつは例外か。

「毎日毎日弟の問いに答えるのにひと苦労さ。2012年論が話題になってるが、歳差運動の周期だね。ある時期高広はそんな計算ばかりしてた。私が元素の周期表を見せてやると今度はそっちに夢中だ。PCも覚えて周期表を3Dで描いたりしてた。挙句の果てに天然原子炉に行きたいと言い出して。知らないかな? アフリカにある。全く父と私は呆れるばかりだ。かなわんから家庭教師をつけたんだ。それで少し落ち着いたんだが」

すげー。言葉を失う。やっぱりあの人じゃないのか。とんでもないオタだね。

「ところが、その彼がアメリカの大学院に行くことになってしまった。困ったことについていくといって聞かないんだ。家庭持ちで家に余裕があるから預かってやると言われはしたんだが心配しないわけがない。結局言葉に甘えてステイさせて、最初は家の者をつけていたが、まだ初等科だったからね、私も向こうの学校に行けという話になった。私は弟のお守りのためにアメリカの学校へ行かされたんだよ」

そこまで世話を焼いた弟と喧嘩別れみたいになっちゃって。気の毒すぎる……。
胸がじんとした。髪結ってるので夜風がより冷たい。
しかしこんなムード満点な月夜に弟の話……。会長らしいな。
初等科って。どこのお坊ちゃん学校だよ。

「会長……。弟さんも今この月を見て同じこと思い出してるかもしれませんよ」

我ながらうまいこと思いついたものだ。私にしてはいい感じの台詞を。会長はふっと笑った。

「日本にいればね」

いたりして。すぐ近くに。なんて思いながら歩く。桜並木に近づくと、何やら人の気配がした。
ぎょっとした。
宴会やってるじゃありませんか〜。しかも複数組。目を凝らしてみるとポツポツそれらしい群れが。
わさわさ声らしき音の流れもキャッチして。
え〜、ここって夜閉まっちゃうんじゃないの〜?
まだ満開じゃないっつーに。満月におびき寄せられたか?

思わず会長に寄り添ってどきっとした。
手を握られたのだ。
いつもと反対側の手。
人前じゃはじめてだ。人前ってほどじゃないけど。

「人、いるんですね」

ドキドキ。帝の表情は穏やかだ。

「フ、これだけの場所に誰もいない方が不自然だ。小説にもあったね。夜の御苑に忍び込び寝転がって夜を明かすんだ」
「そうなんだ」

それも知らないな。情けない。
ふっと目がそれた。
月明かりに浮かび上がる広大な芝生。大きな木のシルエットがなんだかメルヘンチック。その向こうにビル群が。ひときわ目立つのがドコモタワーだ。

「セントラルパークってこんな感じなのかな」
「どうかな。夜に行こうと思わんからな」

もう……。仕事人間。

「NYにも桜ってあるんですか?」
「あちこち見かけるよ。東京ほどじゃないがね。中々立派な枝垂桜もある」

へえ。そうなんだ。

「ボストンの桜が有名ですよね(それしか知らね)。見に行かれたりするものなんですか?」
「いや。わざわざ行かなくても郊外に同じくらいの並木がある。シーズン中は賑やかだよ。店も出てたな」
「桜並木、素敵ですね……」

桜の木の群生の奥に足を踏み入れる。そこにも先客が。
別の意味でぎょっとした。茂みの向こうから何やら猫のような声色が。わかるかな〜、発情期の猫の鳴き声!
何ですか〜。や、やだ。何やってるの!?

「ちょっ」

思わずぎゅっと手を握った。ぐっと腕が寄って、体の側面と側面がぴったりくっついた。

「きゃ」

ドキーン。胸が鳴るが早くこの場も離れたい。ああ、忙しい。

「ハハ、金で女を買って相手をさせるよりよほど健全だ」

え? やだ、大人の反応? おじさん通り越しておじいちゃんの境地みたいなことを。

「行こうか。桜の咲く時期の夜は案外冷える」

本当はもっといたいのだが……。
黙って寄り添ったままついていった。また先客に出くわすのも嫌だし。
酔っ払いのおっさんが聞いてもないのに別の出入り口を教えてくれて。
しょうがないので行ってみる。塀の真ん中に穴が開いてる。
何ここ。知ってる人は知ってるの?

手をつないだまま、このままホテルまで歩いてもいい……。密かな願いはすぐに夜の彼方へ吹っ飛ぶ。いつものようにタクシーに乗せられて。先に座らされるのは私。いつもと違うのは体の距離がより近かったこと。いつも私の手を握るその手が私の髪に触れる。
頬にスーツの生地が擦れる。途端に、脳髄に染み込んでくようだ、大人の人の香り。

「髪が解けかかってるよ。解いてもいいか?」

答える間もなくするっと髪の間を指が抜ける。ばさっと落ちて頬や首に当たる。ああ、ラックス〜。

「どうだい君、フライトフォビアは治りそうか?」

私は何も答えなかった。ドキドキして、それどころじゃないっていうか。体を支えるのに精一杯だ。力入れてないと会長の膝の上に倒れちゃいそう。
猫のように。

「一度精神科に行ってみてはどうだ? 専門の治療法があるらしいが」

精神科ーー? そんな大げさな。
のだめか! 私は千秋様並みなの?
……近いかもしれない。どうしよう。

「治りますかね?」

何とか支えきれる体勢を見つけて私は言った。ドキドキを悟られないよう胸を離して。

「……治しなさいと言っている。アトランタだけじゃない、あちこち飛び回ることになる。もちろんNYもだ」
「NY……。セントラルパークも?」
「もちろん。君次第だ」

ハア……。指が。自分のとは全然違う感触だ。
そわそわする……。男の人に髪を撫でられるのがこんなに気持ちいいとは知らなかった。
髪撫でられーの、すぐ目の前には組んだ足が迫りーの。
私は何? 猫ですかー?
国王陛下の膝の上に丸まって撫で撫でされる猫。
ある日舞い込んできた雑種の猫。
陛下の気まぐれで宮殿に住まうことになった、世にも珍しい料理する猫……。
人を見下すことしか知らない陛下。
母君亡き後先王に厳しく育てられ、やんちゃな王弟殿下に翻弄され、色々不幸が重なり婚期を逃して今に至る……。

「きれいな髪だね……」

ああ、甘い。何このわざと遅く進んでるんじゃないのかってくらいスロウな時の流れ。
らぶらぶを通り越してらぶらぶらぶなムード。さっきまで弟の話ばっかりしてたのに。
このまま……車が止まらなきゃいいのにな。
どうかこのまま……会長のモテ期が再来しませんように。
最近お店で女の人の視線感じる。さっきのお店でもそうだった。

どこかに落ちてしまいそうな瞬間。ドアが開いた。
ぱっと我に返る。パークタワーの前だ。

「あ、私も降ります」

とっさに口から出た言葉。
既に外に出ていた会長と目が合って、どきっとした。
やだ、変な風にとられちゃった?

「そ、その、桜を見ながら歩きたいなって。ここからうちまで20分かかるかかからないかなんで」
「歩く?」

言われるとほぼ同時にドアの近くまで寄っていた体を制される。

「何時だと思ってるんだ、冗談だろう」
「い、いえ。しょっちゅう歩いて帰ってますよ。平気です。地元より東京の方が歩きやすいかも(城の周りは武家屋敷だからな。別の意味で不気味)。自慢じゃないけど私痴漢に遭ったことないんで。遭わない自信あります」
「ダメだ。いいからこのまま帰りなさい」

今とっても歩きたい気分。桜の下音楽でも聴きながら浸りたい。

「でも」
「もっと自分を大切にしなさい」

その言葉に遮られた。

「あの〜、どうされますか」
「行ってくれ」

ドアは閉まり、私だけ乗せて発進。いつものように。姿が遠ざかっていく。手にはしっかりネクタイの箱持ってた。いつの間に。

「お嬢さん、桜見たいのなら寄ってみましょうか。お家どこ? 京王沿いって言われてましたが」

タクシーのおっさんは変に気を利かせるし。
きっと出来上がった上司と部下、って思ったろうな。
乗った場所が場所だし。
それがホテル前で別れて。少しはオヤと思っただろうか。

「この時期はねえ。わざわざのろのろ運転してくれってお客さんもいてねえ。外は寒いからねえ」
「はあ」

カップルとか歩いてる。それを横目に見ながらのろのろ迂回路を進む車。
マジで桜に沿って進むのか。
おっさんにしてみりゃ小遣い稼ぎにはなるわな。会長はいつも万札渡してるから。

さくら、さくら……。
車窓越しに流れてく。
NYでも咲いてるって。
NYと言えばセントラルパークだよね。世界一有名な公園。
あそこを会長と歩けたらどんなに素敵だろう。
でも。
新宿だって捨てたもんじゃない。もしかして勝るとも劣らず素敵かもよ?
会長はこのまま会長でいることはないんだろうか。このまま新宿に。
新宿だって悪かない。

自分を大切にって。そっくりそのままお返ししますよ、会長!
皆、嫌ってなんかないですよ、会長のこと。
心配している人がいる。感謝している人が。
そのことに、気付いてよ?
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密室の恋2 8.液晶の中の君

『……それで、気が早いのですが指輪見てきました♪』
『わ〜おめでとうございます』
『いいなあ。おめでとうございます』
『おめでとうございます』

みなみんさんへの短いお祝いコメントが続く。
これって誰のブログ? れっきとした我がブログだ。
まあ別にいいんだけど。
婚活にいそしむような寂しい人はここにはいないみたいだ。
ここんとこ、みんなのコメントもすっかり春してるの。

『彼氏と花見に行くので弁当のメニュー探りにきました』
『うちはダンナが弁当係なんですよ♪』
『お花見BBQ行ってきました〜。結婚式場のイベントで、参加条件が恋人同伴&ピンク色のもの身に着ける、なんですよ。春日みたいなベスト着た人がいた(笑)』(九州方面の人)

などなど。
らぶらぶ自慢大会か!
ああ、ため息。
会長が会長じゃなかったら私も書くのに。
書けない。

『で式はいつ?』
『10月10日です。指輪もM101010Mでばっちりお願いしてきました〜。ちょっと長いんですけど、ぞろ目に弱いの(笑)』
『あ、そっか。2010年10月10日ね』
『それはめでたいですね!』
『へー最近は日付入れるのか。あ、年がばれる(笑)』
『今年の10日ってお休みでしたっけ』
『日曜ですよ。しかも大安。気合入れて押さえました!』
『すごい!よくとれましたねえ』
『MとMなの?イニシャル一緒なんだ』
『そうなんです〜。正広くんなんで。中居くんと一緒♪ちなみに私はみなみじゃないですよ(笑)』
『じゃ、まーくんとも呼べますね。友達の彼氏がまーくんだ』
『まーくんって男の人結構多いでしょ。だからヒロくんなの』

ちょ、チャットか!
皆さん愛称で呼べる彼氏がいらっしゃって羨ましいこと。
私、元カレのことそんな甘ったるい愛称で呼んでたかなあ?……そうじゃなかった気が。
何だったんだ、今までのヤツは。ホント不毛だ。
正広くん→ヒロくんなの? へー。
なら高広くんもヒロくんだね。
会長は……ナルくんか。
かわいいな。幼稚園のお子ちゃまみたい。とても口に出せねーけど。クク。
どうやら九条兄弟は兄弟揃って変人らしいが、お母さんが生きていたら違っていたかもしれないね。
『ナルくん、ヒロくん、ちょっとおいで〜』って優しく抱っこしてくれるお母さんが。

そのナルくんご本人は急な外出でまた不在だ。
ランチタイムいきなり見慣れない人が上がってきて、難しい話をした後慌しく出て行った。
弁護士がどうのこうの、訴訟がどうのこうのと。
ポツンと残された私。
中途半端な時間帯だ。また下に降りるか。



ナルさまから指示を仰いでないので、本日分の軽食を用意するかどうか迷う。もちろん帰れない。
ふと思いついてホールのケーキを焼くことにした。多めに作って秘書室に持って行こうと。会長が帰ってきたら1ピースだけ出せばいい。
クリームに先日のサワークリームを混ぜ、あるだけのフルーツと窓際で勝手に成長しちゃってるチャービルとミントの葉を散らして、春の丘っぽい見た目に仕上がる。

「わ〜い、今日はケーキだ」
「ケーキも焼けるの? すごいわね」
「お店で出してたものは何でも……。大した腕じゃないですよ」

この程度のものならどこの店でも出してるって。
手作りかどうか知らないけど。
リクエストで今日は紅茶を入れた。
アールグレイの香りが部屋に充満する。

「いいねえ〜。この匂い」
「あ〜、お店みたい」
「何かBGM欲しいね」

しばしティータイム。

「うふふ。見て見て。この間の子達よ」

吉永さんが携帯をかざした。吉永さんを真ん中に若いホスト君ふたり。あのお店のだ。

「撮ってたんですか?」

えー? いつの間に。

「ふふ。久しぶりにカワイー子相手して楽しかった〜」

相手してって。隠さずに堂々と見せるところが何とも。
社長秘書って一番忙しそうな気がするが、吉永さんって一体。
……社長も出かけてるんだそうな。なるほど。
いや、だからといって決して暇なわけじゃない。
電話はしょっちゅうかかってくる。
ささっとPCに打ち込んで、要領いいんだろうな。さすが。
中々の食べっぷり。何と2ピースぺロリだ。

「市川さんのお陰で接待費も大幅削減ね」
「どうしてですか?」
「山元興商の社長さん。あそこの接待費なんて今までと桁違いよ」

えー。あのおじいちゃん?
私は驚いた。
うまくいったって、そっちの意味?
何でも取引額に応じた接待費の取り決めがあるらしく(単純に%ではなく、ちと面倒な計算をするらしい)、その上限ギリギリだった例の釣り接待。それが、 ホームパーティ並みの金額で収まったのだから利益還元率は半端ない。厳密な金額は私だけが知っているが。とても言えたもんじゃない。そんなケチケチ度だ。
驚くことにあのゴージャスなテーブル買っても有り余るほどの接待費だったと。
まああれが会社の経費なのかどうか知らないけどさ。

「気持ちいいわよねー。エコってわけじゃないけど、夜の会食も少し減ってきてるし」

そうなのか。ゴルフは減ってないと思うけど。
会長、やっぱりゴルフ好きなのかな。
ゴルフしてるところ一度見てみたいな。あのかっこいいメガネかけてするのかな。
それこそ写メってくれればいいのに。

ふと私は気付いた。お片づけの時間。
そうだ、写メればよかったんだ、吉永さんみたいに。
あの不破さんて人の写真。
いや動画よ。
ついでに声もとれれば完璧だ。
どっちでもいい、それを会長か緑川さんに見せればよかったんだ!
そうしたら毎度毎度もやもやしなくてすんだのにーー。
やだ、私、どうして気付かないの。
バカ〜〜〜。

はっとして、思わず洗ってた皿をシンクに落っことしそうになった。



ナルさまは5時前に帰ってきた。
何だか顔が険しい。
また何かトラブルでも?
それでも食べるものは食べる。さっきのケーキの残りね。
私は黙って指示されるのを待った。触らぬ神にたたりなし。

「ありがとう。今日はもう帰っていいよ」
「はい」

今日も会食兼ねたパーティだ。お忙しいこと。他の重役が年寄りな分、会長が出席してるのかもね。
何て思いながら髪を留めたピンを外してると言われた。

「今晩はキャンセルだ。今から横浜に行ってくる」
「そうなんですか」
「いい腹ごなしになったよ」

ぽんと肩を叩かれて出て行った。
忙しいこと。何かあったのかな?
吉永さん達には伝えてあるんだろうけど。
私は聞いても分からないよね。



その足で新宿駅へ向かう。
またあの店へ。
マツキヨ通り過ぎていよいよ早足になる。
私なんかにも声かけてくるんだもん、キャッチの兄ちゃんたち。
あー、この雰囲気苦手〜。
あの時写メってりゃもう解決してたのにー。チキショー。
いるかどうかわからないけど、マツキヨで会ったのは確かこの時間帯だったはず。
出勤(ていうのか?)してるとこ会えたらいいなあ。と。

お店に近づいて、足を止めた。
店の横で男の人が話をしている。
あの人だ!
ラッキー。
急いでケータイを出す。
2人だ。
彼の後姿と、もう1人の人が液晶に映る。
もちろん近距離じゃない。
めいっぱいズームして、彼に照準合わせようとして、どきっとした。
真正面に捉えるもう1人の男の人の顔がくっきりと。

えーー?

思わず声出そうになった。
思わず、カシャ。
ケータイ持つ手が震える。
液晶画面見て目を疑った。

そこに写った人がとびきりの美形だからじゃない。
この人――…。
あの人じゃん!
かつてのお騒がせ隣人。
会ったこともない私を助けてくれた鳥取の人。
間違いない。
このきれいな顔。
絶対そうだ。

無意識に保存して、マジマジ見つめる。

どうしてここに?
あの人もホストなの?

?で一杯な頭の中。
今度は肉眼で見つめる。
間違いない、あの人だ。
何喋ってるんだろう。
雑踏で聞こえない。
目が合いそうな気がして、慌てて建物の陰に身を隠した。
そろっと覗き込む。
あの人――…。
えーーと、名前なんだったっけ。
忘れた。
顔の印象がとにかく強くて。
ドキドキして見てると、女の子がすごい勢いで彼らに近づいてきた。

「りょうっ」

声が私の耳にも届く。あの子だ。
前と同じく彼の腕を取り強引に引っ張って、店に消えてく。相当お熱なんだね。
一方もう1人の彼は、2人がいなくなった後腕組みして、私とは反対側に歩いて行った。
ドキドキして、私はそれ以上何もできなかった。



も〜〜。
私、何やってるの?
部屋に戻って、携帯眺めてブツブツ。
まーキレイに撮れてること! さすが最近の携帯は!
薄暗いながらも識別できる美人顔。いや、美男だが。
撮ったのこれ1枚っきり。
これじゃまるであの人撮りに行ったみたいじゃん……。
どうしよう。
また失敗か。こりゃ縁がないのかな。
でも思わぬ縁だよね。この鳥取の人とは。
また見ることになるなんて。
思い起こせば引越しのとき。
お世話になったからってクッキー焼いて持って行ったのだが、いなくてポストに入れておいた。気付いたかな。
しかし相変わらずお美しいこと。
この人鳥取県男子の顔面偏差値おもいっきり上げてるよ。
白バラの君とでも呼ばせてもらおうか。
こんなハンサムと隣同士だったのに知らずに過ごしてたなんて。しかも変人扱いまでして。
損しちゃったかな……。
やだ、そんなこと思ってる場合じゃない。
この人もホストだったの? それっぽくないが。
シャツにジャケット、雰囲気同様落ち着いた身なりだ。
この時間帯に私服ってことは少なくともサラリーマンじゃないよね? 平日だし。
いやだからそんな話じゃなくって!
仕切り直しだ〜。
またあの界隈に行くのか。気が引ける……。
ん、待てよ。
この人に聞けば何か知ってるかも?
彼が本当に不破さんなのかどうか。
親しげだったし。



どうもそわそわして落ち着かない。
ナルさまは昨日の事態が解決したのか、いつものPC作業中だ。
本日のランチを持っていく。
アラビア風薄いパンを油揚げみたいに割ってマッシュポテトや野菜やロースとビーフなど具を入れて食べるの。最近軽いものがお好みのようで。手抜きっちゃ手抜きだ。一緒に食べることもあるんだけど今日はそんな気分じゃない。自分のは用意してなかった。
会長は不思議そうな顔してる。

「どうやって食べるんだ?」

だって。そんな珍しいもんじゃないだろう! パーティ会食にもありそうだが。前にも出した気が。
って、口が裂けても言えません。はいはい、やらせて頂きますよ、わたくしめが! どうせ働き猫ですもの。
サーブして差し上げる。幼稚園児か!

「どうぞ」

ああ、ドキドキ半分、イライラ半分。

「面倒だから盛り付けたものを出してくれ」

と。ハンバーガーじゃないんだー。
珍しく(怒)マーク気味の私。
も〜。誰のせいで気を揉んでると思ってるの。
あんたがあの時現れてりゃすっきり過ごせてるのにーー。
仕方ないか。
来ないよね。やっぱり自力で確かめなきゃ。
ささっと出すと素直に食べる。きれいになくなった。

「軽食はどうされます?」

今日はずっといるんだよね?

「ブリオッシュが食べたいな。出せる?」

珍しいな。そんなバターたっぷりのパンリクエストするなんて。
さては昨夜から何も食ってないとか??
言わないからわからないじゃん。言ってくれ。
言わないよな〜。

「はい。他はよろしいですか」
「そうだなー、適当に」

本当に適当に出しちゃうよ〜。
もー、最近特にこういう所おっさん化してきちゃって。
昭和の夫婦じゃないっての!

「かしこまりました」

でも早速ネクタイしてきてくれて。
それはそれで嬉しいんだけどさ。
コーディネート完璧……。



ブリオッシュって夏には苦労するパンだ。
何がって、作るのが!
クーラーガンガン効いた部屋ならともかく、練りこんでるとバターがすぐに溶けてきちゃうから、ベタベタになる。
ま、夏にはあまり食べたくないが。
というよりこの部屋ならそんな苦労することもないよね。年中快適だ。
いつもより濃厚なバターの香り。
焼きあがった形見てつい微笑んでしまう。
かわいいよね。雪だるまの変形みたいな。
こってりしたのが食べたいのかな、と思って高島屋で仕入れた手づくりサラミをバラの形に巻いたものを付け合せに持っていく。ブルーチーズのソースに葉っぱの代わりはルッコラだ。

「ありがとう」

ぽちっとでっぱったてっぺんをかじりつく、なんて真似はされるわけなく、しずしずひと口大にちぎってお召し上がりになる。ハムもナイフとフォークでキレイに処理して。半分くらいなくなったところで手が止まった。

「すまんな。急に」
「お好きだったんですか? ブリオッシュ」
「時々食べたくなるんだ。前はどこでも売ってたように思うが、最近見かけんな」

うーん。確かにあんまり売ってないかも。
意外なもの食いたくなるんだね。
てか、会長、自分で買ってたりしたのかな? クク。かわいーな。

「食べたくなれば君に言えばいいのだな」
「まあ、おっしゃっていただければ何とか」

隠れ好物かー? これは研究しとかねば。
空になったコップに手を伸ばした。
手が触れそうになって、視線がかち合った。

「髪を……留めてるんだな」

ジュースサーバーを持つ手が微かに揺れた。

「あまり気を遣わなくていいよ」

注ぎきってサーバーを置いて、つい前髪をいじる。
留めてるというか、最近よくあるカチューシャの変形のようなものでまとめて、サイドをピンで留めているだけだ。髪をほどかれちゃったから……その方がいいのかなと思って。

「君は髪を結うとより幼く見える」

ドキ。どーいう意味?

「学生と言っても通りそうだ。逆に自分の年齢を感じるな」

そういう見方があったのか。
ナルさまは時折思わぬことを口にされるからな。
本音しか言わないっていうか。
学生は……言いすぎでしょうに。基準がどこか変だ。

「子供っぽいですかね」

なんか顔が引きつっちゃう。

「……幼く見える割にはしっかりしてると思うよ。バブル期や高度成長期の栄華が忘れられないのかどうか知らんが、年配になるほど派手なことをしたがる傾向 がある。うちの社にいてもよそでも感じる。むしろ若い世代の方が慎重だ。全てに当てはまるわけじゃないがね。君を見てると特にそう思う」

何だよー。それが言いたかったのか。
ええ、そうですよ。氷河期末期のど貧困どケチ世代ですとも!
自慢じゃないが家のクローゼット(と呼べるほど大層なものじゃないが)は夏も冬もあったもんじゃない、常にすっかすか。靴はわずか3足のみ。バッグは……言わずもがな。
家が田舎なせいか非常時でも何とかなるさ根性だ。

「きちんと育ってる証拠だね」

ほめてるんだよ? みたいな表情で。
ナルくんもお母さんがいればもっと違ってたかもね。
浪費家のくせにそんなこと言うなんて……。



キッチンに戻って携帯を眺める。
今日のメニューの画像と、その前の昨日のあの人の画像。
会長に負けず劣らずハンサムだ。
この人に聞けば……わかるだろうか、不破さんの正体。あの店に行かなくても。
まだあのアパートに住んでるのかな。
あれ以来会ってないからな。
行ってみようか。
あまり気が進まないけど……。
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密室の恋2 9.miu miuよ何処

ナルさまはブリオッシュがお好き。
思いつかなかったな。そろそろ半年くらい経つのに。
おフランスなパンだよね。お菓子とパンの間って感じの。
クロワッサンもバターたっぷりだが、あれはぼろぼろ落ちるから。潔癖症な会長には不向きかも。クク。
と、しかめっ面で食べてるとこ想像して笑みが漏れる。
レシピ検索して適当に作ったんだけど、ちょっくら試作しておくか。
ついでに……。手土産にどうかな。
あの鳥取の人に。男の人には甘いものよりもよさそうだよね。アパートにいればいいんだけど。
土曜日の午後。
適当にメシを済ませ、ちっちゃい作業台を片付け、パン作りの用意をする。
大量のバターを粉と混ぜる。
一時発酵の間、デスクに着いてPCを起こした。
レシピを再度検索してみる。
他のパンに比べるとブリオッシュってあんまりないな〜。マイナーなのかな。確かに会長の言うとおりだ。ちょっと前までは店で売ってた気がしたが、今見かけないよね。
ブログに移動した。

『ブリオッシュ。おいしそ〜。匂ってきそうですね』

昨日のメニューへのコメントだ。

『想像するにご主人様ってかなり素敵な殿方なのでは。そんな雰囲気します』

ハハ。ブログ変えてナルさまの呼び名統一してないので皆バラバラなのね。
ご主人様。これが一番響きがいいかな。

『ええ、素敵な方ですよ。できればお見せしたい所です』

などなど打ち込んでは何度も打ち直す。
とびっきりのハンサムですよ、うちのナルくんは。ついでに弟のヒロくんもね。
なーんて。私もあなた方みたいに思いっきりラブリーなコメント残したいですわ。
できないよね。

『ご想像にお任せします〜。メニュー考えるのが楽しい方です』

無難にこんな所か。

『カルピスバター仕入れてきました。今寝かせ中です。うまくいくといいな』

寒いからもうちょっとかかるかな〜。
なんて時間過ごしてると携帯が鳴った。
発信者見てドキッとした。
不破了。ひょっとするとそのヒロくんかもしれない、例の彼だ。
慌てて出た。

『あ、オレ。今いい? バッグが届いたって連絡あって。うん。そ、伊勢丹の。悪いけど取りに行ってくれないかな? ゴメンね。市川さんの名前伝えてあるから。引渡しの際身分証明書見せてくれって』

彼の声は電波に乗っても美声だった。
フィルターかかって余計にときめかせてくれる。
こんな声、声優さんでもちょっとない。

『ホントにごめんね。店に来てくれてどうもありがとう、礼を言うわ。電話越しで悪いけど。じゃ』

「あ、ありがと」

ドキドキしてそれしか返せなくて短く通話は切れた。
バッグ出来上がったんだ。早いな。
明日取りに行こうか。おニューのカゴもいいが、やっぱりないと寂しい。
携帯持ったままなのに気付いて元に戻した。

『ごめんね』

じわーんと胸に残る言い方も声も素敵なんだよね。
さすがホスト……。

2次発酵の時間にシャワー浴びて、焼き上げる時間にブローをする。
オーブンとドライヤー同時に使うとブレーカー容量すれすれなんですけど。こういうところが貧乏チックだな〜。ああ現実。
バターの香りが部屋中に充満する。
あまりにもうまそうな匂いについ手が伸びそうになる。上出来だ。
何だかちょっぴり当てが外れたというか、予定変更。とりあえず明日は新宿からだ。




彼がヒロくんかどうかはともかく、いい人には違いない。
私はブリオッシュ6つをラッピングしてかごバッグにしのばせた。
やっぱりお店に行って、勇気出して高広くんかどうか本人に聞こう。
違ってたらこれだけ渡して帰ればいい。せめてものお礼のつもりだ。
渡す人チェンジするなんてせこい気もするが……。まあいい。

世は正に花見シーズン真っ只中。
後で御苑に寄って桜の写真でも撮ろうか。お直し後のバッグと並べて記事書けばいいよね〜。と、そんな魂胆をたちまち失せさせるほどのすごい人出。その中を縫うようにひたすら伊勢丹を目指す。
久しぶりの伊勢丹。ここも人で一杯だった。
一瞬躊躇してmiu miuのお店に入り、店員さんに声をかける。
すぐに話は通じたようで、段取りは不破さんの指示通り進んだ、店員さんがバッグを持ってきてカウンターの上に出すその瞬間までは。

「え? これ」

驚いて声を上げた。微妙に違う。色合いとか質感とか。
何だか白っぽいんですが。光の加減か?
いぶかしげにしてる私に彼女は説明を加える。

「全く同じものが既に完売しておりまして。こちらはデザインは同じですが素材がシープスキンになりますね。春の新作です。お客様に確認いたしました所、こちらでいいとご了承を得ましたのでお取り寄せいたしました。とても人気がございまして―――」

まあ何というか店員なんだから当たり前なんだろうけどおそろしく淡々と聞こえた。
逆に焦りまくる私。声にならない。
お取り寄せ? 修理ではなくて?
じゃあ、これは全くの別物?

「清算は済んでおりますので」

あの人が、改めて買ったってこと?
えーー?
戸惑う私を尻目に立派なショップ袋に入れられてそれは私の前へと差し出された。

「ありがとうございました」

丁寧にお辞儀されて。
何も言えず、その雰囲気に押されるようにそろそろとショップを出た。



miu miuの大きな袋肩に下げて何度か人と触れそうになりながらふらふら歩いていた。
まるっきり別のものだって?
弁償ってそういう意味?
吉永さんもそう言ってたな。
端から修理に出すなんて誰も思ってなかったってことだ。
って、私のバッグは?
一体どこへ行っちゃったの?
さーーっと青ざめる。
そうよ、あれは??
私は弁償しろなんてひとことも言ってない。
新しいの買えばいいだろうって? 春の新作だからって?
いいえ、違う。
だってあれは特別なバッグなのだから。
馬鹿かもしれない、バッグごときで。
だけどリアルに涙が出そうになってきて、私は携帯を出した。
不破さんに確かめなきゃ。
何はともあれ電話だ。
昨日の着信に返信をする。
心臓がバックンバックン鳴ってる。
呼出音が切れた次の瞬間、私は更に青ざめた。

『おかけになった電話番号は現在使われておりません。恐れ入りますが番号をお確かめになって、おかけ直し下さい』

これまた無機質な女の人の音声ガイダンスが流れる。

「えーー?」

頭真っ白。
携帯を凝視するが反応は変わりはしない。
しばし固まった。
昨日の今日だよ?
どうして?
私はこの瞬間、携帯の番号が何の連絡もなくある日突然つながらなくなるのがこんなにショックなものなのかと初めて思わされたのだ。
要するに初体験だ。
元カレの時だってこんなことはなかった。そもそも電話なんかしようとも思わねーし。
もうそこからはほぼ本能のまま。
衝動的にといった方が近いか。その足であの歌舞伎町の店に急いだ。
まだお昼前で当然閉まっている。
私は店の前を何十回も行ったリ来たりしてとにかく誰か来るのを待った。
ブランド袋提げた女がホストクラブの前をうろうろして。
はたから見ればホストに走る買い物好きの女、だよな。
miu miuなんてホストへの貢物にもなりゃしない。
何時間そこでそうして過ごしただろうか。
やっとその店のホストらしい人が現れた。
私の姿を見て「あれ?」みたいな表情を一瞬だけ見せた。

「お客さん、あの時の」

どうやら吉永さんの相手をしていた男の子らしい。見てる内にあの携帯の画像が浮かんだ。
彼はぺこっと軽く頭を下げ、ちろっと私の全身に目をやって、「お店、まだなんですけど……」鍵を出してシャッターを開けた。

「あ、あの、不破さんにちょっと会いたいんですが」

そう言うと、彼は手を止め表情を崩した。

「あー、不破さんはもう辞めちゃったんですよね」

バツ悪そうに突っ立って、信じられない台詞がその口から飛び出した。

「えっ?」

そんな。
急に?

「元々ここの人じゃないんで」

どういうこと?

「え、えっと、連絡先とか分かりませんか?」
「さあ……。多分、携帯だけだと思う」

えー?
店長とか上の人に言ってよ。
住所くらい、わかるでしょ。

「ど、どちらに住まれてるか、それだけでも」
「いやだから誰も知らないんですよ。そういう契約なんで」

ピキーン。
お気に入りのガラスのコップ落としちゃったみたいに。
私の心は木っ端微塵だ。



どうしよ。
もはや新宿の花見客の雑踏も、風の強さも体に感じない。
ひたすら解答を求めてぐるぐる駅の辺りを歩は進む。

「あっ」

あることに気がついた。
あの人だ。
かつての隣人。
あの人に聞けば……。何か知ってるかもしれない、彼のこと。
元々そのつもりだったじゃないかー。
すぐさま駅に走る。
来た経路を逆に。幡ヶ谷を過ぎてかつての居住地へ向かった。



結局、予定通りあの人を訪ねる羽目になったわけだが、状況がまるで違う。
長年住んでいた町。懐かしさで一杯、なんて感慨に浸るでもなく、あの人がいますように、いますように、とひたすら祈りながら足早に目指す。
アパートに着いて、私が住んでいた部屋の先の彼の部屋へ。安アパートらしい簡素なブザーを押すが反応はなかった。
気は焦る。
時は5時すぎ。
外出中か。
そもそも帰ってくるの?
引越しの時も夕方近くだったな。いなかったケド。
不安に襲われて、階段を降り、かつて庭としていたその界隈を当てもなく歩き回る。
陽が急激に角度を下げはじめる。
どうしよう、どうしよう。
それ以外何をすればいいか見当もつかなくてひたすら動く。
かつてあまり利用することのなかったコンビニが見えてきた。
自炊派の私には縁の薄かったコンビニ。
ブックカフェを見つけた。ああ、懐かしい。会長の出張で色々あったっけ。
ほんのちょっと気持ちが軽くなる。
キョロキョロしながら角を曲がったその時だ。

「わっ」

出会い頭に人とぶつかった。
勢いでバッグの袋を落っことした。
私は驚いた。またまた固まった。袋を拾うのも忘れるほどに。

「あれ? 君」

あの人だ。
既に薄暗い時間帯。
間違いなくあの店で見た彼だった。

「あ、ご、ごめんなさい」
「いや、オレも電話しながら歩いてたんで。ゴメン」

ドキドキ復活。台詞がこんがらがってうまくまとまらない。

「元気してた? あ、クッキーありがとう。美味しかったよ」
「え」

ドキン。ときめいてる場合じゃない。

「あ、あの。不破さんてご存知なんですか?」
「え?」

唐突過ぎる質問に彼はびっくりしていた。

「お店で、話してませんでしたか? 木曜日――」
「木曜?」

そう、木曜。
ついこの前のことなのに。
まさかこんな展開になろうとは。
信じられない。
彼も信じられない、みたいな表情。
しばし無言で見つめあう……。

「店って、新宿の?」

彼はやっと口を開いた。無理もない。状況説明も何もあったもんじゃない。私ったら挨拶すらせずに要件だけ言ってるのだから。

「はい」

ああ、やっぱりこの人だったんだ。

「君もいたんだ」
「ええ。あの、私、不破さんに用があって……。住所とか知りませんか?」

また「えっ」と驚いた表情になる。かっこいいが、そんなこと思ってる余裕なんてない。

「何、君、ホストのおっかけやってるの?」

その顔がくすっと笑った。
かぁっと胸が熱くなる。

「ち、ちが……。ちょっとトラブって、連絡取りたいんです」

ああ、うまく言えない。

「トラブル?」
「あ、んーー、番号教えてもらったんだけど、もうつながらなくて……。何かご存知ありませんか?」

彼は頷いた。「ああ」

「オレも向こうからかかってくるの受けるだけなんだ。今頃空港向かってるんじゃないかな」
「空港?」

びっくり仰天だ。

「羽田ー香港便。確か8時過ぎだったはず」

彼は腕時計をちらっと覗かせた。

「えーー? 香港?」
「ああ」
「東京の人じゃないんですか?」
「んー、まあ。あちこち飛んでるみたいだよ」

ふふと穏やかに微笑む。
あちこち?

「あの人、もしかして、出張ホストとかなの?」
「出張ホスト?」

彼は「あはは」と顔を上げて笑った。彼にしては少々派手なリアクションだ。

「そうかもしれないね。オレもよく知らないんだ」
「え?」

どういうこと?
知り合いじゃないの?
ああ、でもそんなことはどうでもいい。

「しばらく東京には戻らないよ。詳しいことは電話かかってくるまで分からんが。香港行きは聞いてるよ」
「わ、わかりました、ありがとうございましたっ」

速攻。私は駅に向かってダッシュしていた。
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密室の恋2 10.night bird

私は走った。電車に飛び乗り新宿で乗り換え浜松町からモノレール。正月に辿ったコースを大慌てで。
あの人がヒロくんかどうかもうどうでもいい、バッグさえ返してもらえれば―――。
ああ、こんなことなら手放すんじゃなかった。
あの夜ホテルで渡された思い出のバッグ。捨てられてたらどうしようーー。
修理なんて頼んだ私がおかしいの?
着くや否や時間なんて見る間もなく案内板通りにバスに乗って、まだ工事中でしょぼい国際線ターミナルへ到着。
ああ、いますように。
目が潤んでボードが霞む。
建物はとってもしょぼいけれど人が大勢いて、おぼつかない視線をさえぎった。
香港、香港……。出発まで1時間切ってる。彼が待合室に上がっていたらアウトだ。
ああ…
グァム旅行で散々だった私とは対照的に友達連中はその後アジア各地制覇しまくってたな。
香港、台湾、上海、バンコク、シンガポール……。私だけポツン。
情けない、こんなことになろうとは。とことん飛行機と相性悪いのね。
きょろきょろするが彼らしい人はいない。
まだ向こうにいるのかな。食事でもしてるの? ここイマイチ小さいから……。
いや、狭くてラッキーだ。
見てるうちに目がなじんできた。
ぱっと見日本人かと思えた人たちが通じない言語で話しているのも聞こえてきた。
もう一度ゆっくりと見回した。

いた!

白っぽい服装の背の高い男の人。
あの人だーーー。
私は駆け寄った。

「あの!」

彼は振り向いた。
顔を向けるなりびっくりして、

「え? 君……」
「あの……」
「君もどこか旅行?」

すぐににっこりとホストスマイルになる。

「ち、違うの。私、バッグを返してもらおうと思って」
「バッグ?」
「私のバッグはどこに……」
「って、何? 君、一体……」

不思議そうな顔を私に向ける。そりゃそうだよね。まさかバッグのためにこんな所まで追っかけてくるなんて思いもしないだろう。手には何にも持ってない。白っぽいけれどホスト風とはちょいと異なるラフないでたち。旅行客には見えない。それでわかんなかったのかな。

「あー、ゴメン。ダメだったかな、あれじゃ」
「そういう意味じゃなくって……。とにかく返してください、お願いします!」

ちんたら説明なんかしてられないって!

「んーー、オレこれから香港なんだわ」
「返して、お願い」

彼は右手を額に当てた。お困りの様子だ。

「お願いします。あのバッグ、自分で買ったんじゃないの。貰ったものなの。大事にしたいから……」

言い切らないうちに涙が出てきた。
ひえ〜、ぶりっこじゃないっての!
でも胸が震えて……。思わずうつむいた。
初めてのプレゼントだもの。色んな思いがこもってる。
そりゃ私も大事に大事に使ってたとは言いがたいけどさ。

「かえして……」

情けない。涙でそれ以上言えない。

「まいったなあ」

素敵な声。甘い声。演技じゃなさそうな地の声。

「彼氏のプレゼントだったんだ?」

私は下向いたまま黙って首を横に振った。

「君たちってさ、T商事のOLさんだよね」

こくんと頷いた後で、「へ?」と顔を上げた。
何で知ってるの? と。

「言ってたじゃん。もう1人の人」

吉永さんかー。そんなこと喋ってたの?

「もしかして、会社関係の人かな? バッグ貰ったの」

ドッキーン。瞬間、涙がひいた。

「T商事会長室専任社員、って君のことだろ」
「え?」

何それ?
そんな肩書き今初めて聞くが。
ちょっと、やめてー。
いつの間にそんな大層なもんになってたんだ?

「あの」

涙の後を拭きもせず、ぽかんと彼の顔を見つめた。
彼はふっと微笑んだ。

「バッグね。今すぐには無理だけど、何とかしておくわ。ゴメン、気がつかなくて」

そのひとことで体の緊張がとけていく。

「携帯通じなくて焦っちゃったかな? 悪い。オレいつもそうしてるんで。また連絡するわ」

ほーーっと胸をなでおろす。ドキドキもおさまって、「ごめんなさい、いきなり。ちょっと見かけたもんで。チェックインまだでした?」なんて言葉も出てきた。
嘘くさいの〜。

「ん。いや。それは済んでる」
「あ、そうだ」

突如思い出してバッグの中の袋を取り出す。
透明な袋に入れた例のブリオッシュだ。
ちょっぴり形が同じ方向に歪んじゃってるが。
せめてもの気持ち……。
差し出すと彼はまたびっくり顔になった。

「え? オレに?」
「よかったら食べて。迷惑かけちゃったんで御礼です」
「もしかして、手づくり?」
「は、はあ。お嫌いですか?」
「いや。どうも」

すごい意外そうな顔して受け取る。
そんなに珍しいかな。
ホストだからもっといいもの貰うか。
やっぱ失敗か。

「まいったな……」

彼はじっと私のパンを見つめていた。じっと……その目が揺れ動いたような気がした。

「……これに落ちたってわけか。あの兄貴が」

微かに笑って、
『アニキ』確かにそう聞こえた。

「へっ?」

今度は私がびっくり、だ。

「兄さん……」

驚きの一言と、俳優のような彼の顔。パンを見つめながらその視線の先にあるのはパンじゃない。そんな愁いを帯びた声と表情に。

「えーー?」

しばし時が止まる。
何この展開。
何が起こってるんだ?
ドラマか? ドラマの撮影でもやってるの?
あの鳥取の人といい、ついていけないっ。

「も、もしかして、ヒロくん?」

思わず口をついて出たのがそれだ。
あわわわ、つい、ヒロくんなんて。
慌てて口をふさぐが遅い。
そんな私の目の前で、彼はゆっくりと頷いた。

「そうだよ」
「うそ」
「よく知ってるな、オレのこと。兄さんから聞いた?」

えーー?
信じられない。
桜の精のまやかしでは??

「フ、ヒロくんなんて呼ばれたの何年ぶりかな」

今までとがらっと違う寂しそうな笑みが真実を物語る。
嘘でしょ、あれほどやきもきしたのに。
まさか、自ら正体明かすとは。

「……あんたのことは知ってたよ。会長室専任社員、市川香苗。19ーー年9月26日生まれ、島根県松江市出身」
「な、どうして」

どういうこと?

「知っていた……。兄さんが11月にNYのmiu miuでバッグ買ったことも。兄さん名義の別のカード、利用明細が食品やら花やら ちまちましたものばっかりになってるからおかしいなと思ってたんだ」

え? え? え?

「いつの間に秘書なんか雇ってんだ? しかもオレより若いなんてさ!!」

あははは、と派手に笑う。つられて口だけ開ける私。ハハ……。

「あ、あの、意味が……」
「オレ、こう見えてph.D持ちなんだぜ? 専門はCS。兄貴の会社の人事データ見るくらいわけないや! クレカもな」
「えっ」

ぴーえぃち? って何?
データに侵入??
この人……。
オタはオタでもそっちのオタかー!

「そこまではたぶん兄貴も気付いてると思うけどね。どんな子だろうって気にはなってたんだ。まさか駅でぶつかった相手だとは。店で名前知ってたまげたぜ!」

狭いロビーに響く素敵な笑い声。
私はこのとき初めて、西日本出身者以外の口から『たまげた』という言葉を聞いたのだった。
東京の人も言うんだね。まあそれはおいといて。

「偶然お目にかかれるなんてね。光栄だ」

宝塚の男役みたいなきりっとしたポーズに切り替わる。さすがホスト……。

「で、何、あんたが兄さんの世話してんの?」
「いえ、その、お食事の……」
「フフ」

いきなり『あんた』呼ばわりしてくれる彼はちろんと上下に視線を流して、「料理好きな女は今までにもいたはずだけどな」

え。ドキ。この人も知ってるの? 会長のモテ期……。

「兄さんの好み、ばっちり押さえたってわけだ」
「そ、そんなわけじゃ……」
「フ、メシか。ハハッ、親父とまるっきり一緒じゃないか、こりゃいいや!!」

また笑い転げる。
どうでもいいけど搭乗時間が迫ってるのでは?

「ふ、不破さんていうのは、嘘の名前だったんですね」

香港行きがアナウンスされてるが気にしない様子。の彼に私は言った。

「ん? いや、実在の人間だよ。ほら」

ポケットを探って私の目の前にパスポートをかざした。

……不破了。確かに。写真も。どーいうこと?

「なりすましてるの?」
「いや、ID必要な時だけね。ちょっくら拝借してるわけ」

それって……偽造と大して変わらないんじゃ。そもそも審査でばれないの?
じーっと証明写真を見つめる。なるほど、よく似ている。でも違うといわれれば違うよ?
堂々と他人のパスポート使って移動してるってこと??
えーー?
証明写真ってホント当てにならないのね。

「そ、そこまでして……」
「逃げ回ってるわけじゃない。もう少し……兄貴とは距離を置いていたいんだ」
「え? どうして……」

あんなに心配してるのに、会長。この人が現れてくれたらどんなに喜ぶことだろう。

「あんた、どこまで知ってるんだ? オレたちのこと」

ぎく。

「……け、けんか別れのようになったって。婚約してたのがダメになって……」
「そうか。兄さんが?」
「はい」
「マヤさんの話を?」
「え、ええ」

彼は黙って深く頷いた。

「あの兄貴が喋るなんて相当……。いや、オレも兄貴には悪いことしたって思ってるよ」
「じゃ、じゃあ」

会長に会ってあげて! 私は目で訴えた。

「ん。でもオレにも考えがあって。離れてみるとよくわかるんだ、兄さんの立場。オレにはとても真似できない。オレは、兄貴に迷惑かけてばっかりだったから」

よくわかってるじゃん。

「喋りたきゃ喋ってもいいよ。でもまだ会えない……。ま、そばにいてもオレにはリーマンなんて勤まらないけどな」
「高広くん……」

じんとした。変わってるっちゃ変わってるけど、それはお兄さんも同じだ。

「まあ兄貴らしいや。オレが新宿うろついていても気がつきゃしない。兄貴は新宿のあっち側には絶対行かないからな。わかってはいたんだが」
「見つけて欲しかった、とか?」
「そういうわけじゃないよ。完璧なようでいて完璧じゃないって話。オレ、マヤさんのブログにも書き込みしてるんだけどな」
「えっ、そうなの」
「ああ。一番テンション高いのがオレさ。兄貴が見てるかどうか知らんが。あんたもやってるよね? ブログ」
「えっ」

ドキーーン。心臓がぶっ飛びそうになった。そこまで読まれてるの?

「フフ」

きらりんと王子様スマイル。なるほど、緑川さんの言葉どおりだ。想像の上を行くよ。兄上もそうだが。

「確かに兄貴が食いそうなものばっかりだ。単に料理できりゃいいってもんじゃないんだな。あれだけ女の条件に厳しい兄貴がねえ。実は面食いじゃなかったのかな?」

どういう意味だーー。すいませんね、10人並みの顔で。

「高広くん、ひょっとして、マヤさんのこと、好きだった?」
「え? どうして」
「会長が言ってたから。それで……」

揉めたんじゃないの? こじれたっていうか。

「フ、ならいいんだけどな」

ちらっと彼の視線が動いた。壁の時計かな。少しは気にしてたのか。

「兄さんが彼女変える度、一人前に説教たれてたな。今思うとオレ義姉さんが欲しかったんだと思うわ。兄貴の嫁さんになってくれる人」

ドキン、何故私の胸が鳴るの。

「お、女の子に興味ないって……。そんなに慣れてる感じなのに?」

そう。そこはどうも解せない。そんな人がホストやるかって話。

「それも兄さんが?」
「い、いえ。その、会長のお友達……」
「あーー、緑川のおっさんか!」

ぱっと彼の顔が明るくなった。

「あと何か言ってた? オレのこと」
「は、はあ。ちょっと、変わってる、って」
「ハハハ、言ってくれるなあ、オレがいないのをいいことに。自分は鉄オタの癖に」

鉄オタ?

「みんな元気してる? 何か色々思い出すわ」

明るい人だ。からっとしている。まさしく自由人て感じ。会長はあんなに大変そうなのに。何だか複雑な心境。

「かわいがってもらってたからさ、兄貴と兄貴の知り合いに。親父が死んだおふくろに操立てて、女っ気一切絶ちやがったせいで、オレも兄貴も女が『鬼門』で さ。ガキの頃から揉めてばっかり。親父が相手の家に頭下げに行って逆に恐縮されたり、色々あった。お陰で2人とも結婚願望ゼロ。跡取りは考えなくていいっ て言われていたのに……皮肉だよな、縁談パアになって後継ぐ羽目になるなんて。 あのまま結婚してたら兄さんまだNYにいたかもしれない……」
「高広くん……」
「オレなりに反省して、勉強してるつもりだよ。この4年で少しは変わったと思う。少なくとも兄さんみたいに女を泣かせることはない」

って。会長って女泣かせなの? 気になる台詞だ。

「ま、時機を見て謝るつもりではいるんだ。今日のところは見逃してくれ。次の仕事入ってるし」

いきなり彼は顔を近づけた。

「今度会うときはあんたがオレの義姉さんになってるのかな」
「えっ」

かぁ〜と耳まで熱くなる。
だからそんなんじゃないんだってば!
誰に言ってもわかってもらえない。

「フフ」

彼は「じゃ」と向こうを向いた。とても国際線とは思えない出発口。その向こうに待機しているであろう香港行きの機体。……行っちゃう、高広くん!

「待って!」

そこからの私。
まくし立てるように喋っていた。

「お願い、一度でいいから元気な姿を会長に……お父さんに見せてあげて。お願いします」

彼はまた振り向いた。少し驚いた顔で。

「お願い……。会長、それ以来、時が止まっちゃってるの。前に進めないの。多分、お父さんも。いつもいつも高広くんのこと、気にかけているの。だから、お願い、メールでも、葉書でも何でもいい、今の姿を見せてあげて!!」

思いがこみ上げて、またまた目がうるうるした。
彼はじっと視線を合わせて、「わかったよ。約束する」

「またね。それまでオレのバッグ使っててくれ」

ばちっとウィンクして、「兄貴にバレないようにな!」また背を向けた。
広い背中。ああ、やっぱり会長にそっくりだ。歩き方も。
やっぱり……新宿にいたんだね。会長……もっといい探偵雇えって。ど素人の私が見つけてどうするよ。
いっちゃった。審査あっさり通って。アハハ……。
私はずっと見ていた。しばらくそこにたたずんでいた。泡のように色んな思いが浮かんでは消える。
正月にひどい目にあった空港なのに(ひどい目にあったのは機内と伊丹だが)。出雲並みにしょぼいロビーなのに。まるでドラマのシーンみたいにじーーんと感動して。

桜の国の王子様。桜の花とともに現れて……消えて。
天真爛漫でとても国内に留まってられない王子様。
不思議な力で離れた場所から苦労人の兄君を見守っているの。
お忍びで帰国中、兄君が飼い猫に与えたおもちゃのバッグを傷つけてしまいましたが見事桜色のバッグに変身させましたとさ。

しかしハタと気付く。

「バッグ〜? そういえば、どこやったっけ?」

伊勢丹miu miuのバッグ。手に持ってやしない。
ちょっと、いつからないの〜?
慌ててその場を離れて、キョロキョロしながら来た道を遡る。
まただよ……。
あのアパートに辿りついたのは10時すぎ……。

「やあ、来ると思ってたよ」

あの人に大笑いされて。「はい。これ」とショップ袋手渡されて。無事バッグは手元に戻った。

「で、不破くんには会えましたか?」
「は、はあ」

ただただ赤面。お礼だけはしっかりしておいたが。
何かと恩人だよね。あの人。あ、また名前聞くの忘れた。



ひとまず一件落着。
私は気持ちのいい朝を迎えた。
一段と元気よく挨拶して。
会長がエスプレッソ飲んでる間もニコニコ……。

「? 何だ、何か用か」

怪訝な顔の会長。

よかったですね、会長。そのうち幸せメールが届きますよ。
ああ、その時私はどんなリアクションしてあげればいいんだろう。
想像するとまたまた、にま〜。

「何かいいことでもあったのか? 結構なことだ」

ええ。ありましたよ。会長もじきに……うひひひ。

「お昼はペニンシュラの立食パーティに出席でしたね。その後どうされますか?」

何でも作って差し上げますよ。
じゃんじゃんオーダーしてください。気分は最高だ。

「ああ、そのことだが……。君も行ってみるかい?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。若い世代ばかりだよ。私は人に会いに行くんだが。後はまた横浜だ。君は好きに帰りなさい」

ヤッター。ラッキー。ペニンシュラのパーティだって。わくわく。
今日はなんていい日なんだ。
ついてるついでにこんなことを口走った。

「会長、マヤさんのブログ、教えてもらってもいいですか?」

会長の表情が一瞬こわばって、すぐに戻る。

「……君のPC立ち上がってるか?」
「はい」

すっと立って、キッチンへ歩いていく。
窓際の私のPCのキーボードの上を長い指がうごめく。何かの生物のように。そう見えた。
アドレスバーに打ち込むほんの1、2秒だ。会長はさっと離れた。

「あ、ありがとうございます」

何だか照れくさくなって、余計な一言をくっつけた。

「ブログご覧になるんですね」

特に意味はないが。会長はドアの手前でこちらを向いた。

「私が? まさか。付き合う前からやってたんだよ。緑川がしきりに見てみろとうるさいがね。もう気にするなというニュアンスだと思うが。余計な世話だ」
「気にされてたんじゃないんですか?」

と言うと会長はほんのちょっと間をおいて、

「……女性の影を引きずる男に見えるか?」

キッと強い視線を向けた。

何よ。アドレス覚えてるんだからそうじゃないの?

しかしいつものごとく、何も返せず。
まあいいや。高広くんのコメント探そう。
と、PCに向き合う。

「えっ」

ところがどっこい。

「ちょ、これ、英語〜〜?」

ブログっても日本だけじゃないわけで。
そこに並ぶのはエーゴ。ずらりとローマ字。時々数字。
マジで? 間違えてるんじゃないの〜?
プロフィールの欄を見ると確かにMAYAとなっている。
当然だがコメントも全部英語。やたらと!!!が多い。
これじゃどれがテンション高いかわからないよー。
たちまちうろたえる私。

それでも翻訳かけてみたりと一応努力はしてみる。聞いた以上はそれくらいしないと。
変な日本語になって余計こんがらがる。誰か訳してくれー。

あーあ、やっぱり私には入れない領域ってあるのかも。
英語と飛行機。自分の課題は何一つ前進してないじゃん。ああ〜…。
こんなのでアメリカ行こうってんだからそりゃ親も信じないよな。
ナルくんに頼んでも訳してなんかくれないだろうし。
どっちも自分で何とかしろって?
なんか腹立つわー。

「アメリカ行き中止にならないかな〜」

机の上にでんと横向きになり、携帯を出してフォルダの画像を選択。

あーほれぼれするわ。消しちゃうの惜しいな。待ち受けにしたいほどイケメンだわ。
例のあの人の画像だ。
この人こそ隠れ王子様かもね。教えてもらわなかったら今頃どうなってたやら。
王子様の横でゆらゆら揺れる縁結びストラップ。
朝の光を浴びた白いタイルを背景にパステルトーンがより映える。
とりあえず願いはかないましたわ。
ありがとう、神様……。

ところが。
私の念じ方がいけなかったのか、大社パワー凄しなのか、はたまた単にミーハーなのか、神様の思し召しはこれだけじゃなかったようで。
のちのち思わぬ事態になっちゃうのだが、それはまた後日の話……。
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